第一部 「明け渡し」本裁判の経緯

1. 法的措置年表

1988年会計監査院によって三鷹寮の敷地が「不効率利用国有地」に指定される
1991年10月三鷹国際学生宿舎建設計画の予算化が認められる
10月9日臨時教授会で三鷹・駒場寮の「廃寮」を含む三鷹国際学生宿舎建設計画が学生・寮生に秘密裏の内に決定される
10月17日「21世紀の国際宿舎を目指して」なる文書により三鷹計画の存在が明らかになる
1992年10月「三鷹国際学生宿舎」の第1期工事が始まる
1995年10月17日学部長が「96年3月31日をもって駒場寮を廃寮にする」という通告を行おうとしたが(判決ではこの時に「廃寮」が学長によって決定されたと記されている)学生・寮生の反対に遭い通告は行えなかった。
1996年4月1日「廃寮」宣言
4月2日寮生への恫喝、法的措置のための寮生の同定を行う、「説得隊」と称する教職員の集団が寮内に侵入し始める
4月8日学部当局は「駒場寮は用途廃止された建物なので電気・ガスの供給を行うことはできない」などとして、電気・ガスの供給を一方的に停止した
6月20日6月教授会、法的措置の学部長への一任を決定
8月12日国・大学側、「占有移転禁止」仮処分申立
9月3日東京地裁、「占有移転禁止」仮処分決定
9月10日第一次「占有移転禁止」仮処分執行
9月20日「占有移転禁止」仮処分調書完成
10月31日寮側、東京地裁に「占有移転禁止」仮処分執行異議申立
1997年1月28日東京地裁、「占有移転禁止」仮処分執行異議申立却下
2月4日国(大学当局)側、「明渡断行」仮処分申立
2月5日国側は駒場寮自治会、全日本学生寮自治会連合、東京都学生寮自治会連合の3団体および46名を相手取り北中明寮3棟の明渡の仮処分申請
3月6日第一回審尋
3月18日第二回審尋
3月19日国(大学当局)側、北中寮の明渡申立取り下げ
3月25日東京地裁、「明渡断行」仮処分決定
3月29日第一次「明渡断行」仮処分強制執行
4月まだ人が住んでいるにもかかわらず明寮の周りに工事用フェンスを張ろうとした
4月10日第2次「明渡断行」仮処分強制執行
4月12日フェンス設置工事。100人以上の教職員、300名以上のガードマンが導入され重機によって北明寮間の渡り廊下が破壊され、抗議する学生はガードマンによって強制排除された
6月28日学部当局がフェンス工事を強行(6・28事件)。負傷者多数
7月31日第二次占有移転禁止仮処分決定
8月7日第二次占有移転禁止仮処分執行
10月1日国・大学が駒場寮明け渡し裁判を提訴
12月5日口頭弁論。寮側の債務者及び代理人は都合が着かず欠席
1998年2月20日第1回口頭弁論
4月28日第2回口頭弁論
6月26日第3回口頭弁論
10月13日第4回口頭弁論
12月18日第5回口頭弁論
1999年2月16日第6回口頭弁論
4月13日第7回口頭弁論
6月22日第8回口頭弁論
7月28日第1回進行協議。裁判所側が証人尋問を行いたくないという意思を表した
9月3日第2回進行協議。「慎重な審理を求める署名」累計2,396筆
10月1日第3回進行協議。「慎重な審理を求める署名」学生向け累計3,387筆 教職員から23筆
11月26日第9回口頭弁論
12月10日成瀬豊氏(元寮委員長)、須藤虎太郎氏(寮生)の証人尋問
12月21日学部長特別補佐永野三郎教授の証人尋問
2000年3月3日最終口頭弁論。3名の寮生が口頭陳述を行った
3月28日駒場寮「明け渡し」裁判判決言い渡し。仮執行宣言付きの「明け渡し」不当判決が言い渡される。寮生側は即時控訴・強制執行停止の申し立てを行う。集まった「公正な判断を求める署名」は4,000筆を越えた
3月31日強制執行停止決定が下る
8月3日第1回高等弁論

2. 法的措置への突入から、一審判決まで

2.1 学部長への法的措置の一任

 寮生・学生に秘密裏に決定された駒場寮「廃寮」は、その後のストライキなどの学生の広範な反対を全て無視して強行され、96年4月には学部当局が「廃寮」を宣言するに至ります。96年4月以降、学部当局は電気・ガスの供給停止を含む、あらゆる実力攻撃によって(第3部5.1.4参照)寮生を叩き出そうとしますが、寮生はねばり強く実力での攻撃に耐え抜きました。電気・ガスを止めれば寮生も音を上げるだろうという学部当局のもくろみははずれ、実力での叩き出しによって寮問題を解決しようとする策動は挫折したのです。
 しかし学部当局は、このような状況をうけて理性的な話し合いでの解決を模索することなく、学生を裁判で訴えることを視野に入れ、96年6月教授会において「学部長への法的措置の一任」を決議します。問題を裁判に移すことには教授会内でも抵抗があったのですが、学部当局は「公正な第三者に判断を仰ぐ」と心にもない(実際、特に国対裁判においては、裁判所は公正な第三者ではありえません)説明を行い、教授会構成員の懐柔を図りました。さらに、教授会の場でも「このような重要なことを決めるのならば、採決を取る必要がある」との発言が出されましたが、これに対し「『学部長への法的措置の一任』への反対は執行部への不信任と見るべきであり、その採決は執行部不信任として採決することになる」という発言が出され、「採決を取るかどうかの採決」が取られ、結局採決をせずこれも拍手承認で決定されたのです。もちろんある事項に関する採決と執行部への不信任は同義ではないし、この発言は執行部から出された議案を全て採決すら取ることなく承認せよという圧力に他ならないのです。この承認劇をある教官は「非常に不愉快な出来事だった」と述懐しています。
 この決定によって学部当局は「法的措置」という大学自治、学内民主主義の放棄へと一線を越えてしまいました。この後学部当局は「係争中」であることを理由に話し合いすら拒否するという、当事者責任の放棄へと向かうのです。

2.2 占有移転禁止仮処分

 1996年9月10日、第一次占有移転禁止仮処分が寮生に事前に何の告知もないまま、突然執行されました。占有移転禁止仮処分とは、「明け渡し」裁判に入る前の法的措置の第一段階であり、どこにだれが住んでいるかを法的に同定する手続きです。執行されると以後住んでいる人が入れ替わったり新たに入居者が増えても、法的には執行時に住んでいた人が住んでいるものと見なし、「明け渡し」判決が出た場合には新たに入居した人でも、確定された人として、あるいはその人と一緒に出て行かねばなりません。これは、「明渡断行」仮処分の前段階として行われ、20名の寮生・学生が占有者として同定されました。この時点での寮生はもちろん20名に留まるものではありませんし、この20名の中には寮生でない学生も含まれていました。さらに、実際の占有状況と全く異なる「共同占有」という認定が行われる(第3部3参照)など、この占有移転禁止仮処分執行はデタラメなものでした。これについては、同定された寮生が異議申し立てを行いましたが、これは後日却下決定が下りました(判決及び第三部3参照)。
 また、「明渡断行」仮処分執行後、「明け渡し」本裁判に突入するために、97年8月7日に第二次占有移転禁止仮処分が執行され、寮生・学生・寮内サークル構成員24名と駒場寮自治会、全日本学生寮自治会連合、東京都学生寮自治会連合の3団体を占有者として同定します。これも第一次占有移転禁止仮処分と同様、寮生でない学生の同定、寮生でも同定されなかった学生多数、「共同占有」という認定など間違いだらけのものであり、同様に異議申し立てを行ったものの不当にも却下されています。

2.3 「明渡断行」仮処分

 当初、東大当局は「仮処分」(より詳しい「明渡断行」仮処分についての解説は「法的措置関連報告集:駒場寮委員会発行」をご参照下さい)という法的措置によって、駒場寮の明け渡しを実行しようと画策していました。「仮処分」は「口頭弁論を経ないですることができる」とされており、通常の裁判手続き・審理が全く行われず「審尋」という裁判官との面接だけで審理がなされ「決定」を下すことができるものです。もちろん、これは裁判の審理としては極めて不十分なものであり、このため法律によれば「著しい損害又は急迫の危険を避けるためこれを必要とするとき」にのみ認められるのです。しかし、東大当局は駒場寮の「明け渡し」に何の緊急性・必要性がなく、何ら損害も危険もないにも関わらず、できるだけ早く(一般的に仮処分は2週間程度で終結します)寮生を叩き出すため仮処分に踏み切ったのです。つまり東大当局には(裁判所が決して公正な第三者たり得ないという問題性はおくとしても)「公正な第三者(としての裁判所)の判断を仰ぐ」つもりなど、当初から全くなかったのです。さらに、国・東大当局は何としても仮処分命令を出させるために、「駒場寮は管理不能状態にあるため(プレハブ棟の)放火が起こった(から危険)」「寮の定員は750名」などと虚偽の主張を乱発しましたが、寮自治会側の反論に次々とその虚偽性が暴露されていきました。
 結局、いくら行政よりの司法といえど微塵も必要性のない仮処分決定が下る見込みはなく、国・東大当局は自ら北寮及び中寮の「明渡断行」仮処分を取り下げるという醜態をさらすこととなります。しかし、国・東大当局はキャンパスプラザの図面を数メートル明寮(北寮の北側に位置した北中寮のハーフサイズの寮。現在跡地は芝生)に引っかけるという極めて姑息な手段を用い(明寮に引っかけなくても建築できたことは、過去そのような計画があったことからも明らか)、これによって「明け渡しができなければ予算を返上しなければならない」という詭弁を弄して地裁に明寮に対する「明渡断行」仮処分命令を出すよう迫ったのです。しかし財政法の点のみからみても、既にこの時点で正常な形で予算執行をすることは不可能であり、また予算執行が仮処分の要件たる「緊急性」の事由となる判例もなく、この主張は失当としか言えないものでした。ところが驚くべきことに、東京地裁は国・東大当局の主張を無前提に認め明寮に対する「明渡断行」仮処分決定を下したのです。裁判所が国対裁判において決して公正な第三者たり得ない、という現実がここに明確にあらわれているのです。
 とはいえ、寮自治会及び債務者となった寮生は地裁の決定には従い明寮を明け渡すこととし、その旨執行官室と国側に通知しました。しかし決定からわずか四日後、執行官は大学当局が動員した数百名のガードマンを用いて強制執行を強行したのです。明寮に居住していた寮生全てが、債務者と認定されていたわけではありませんでした。つまり、(当然債務者にしか明け渡しの効果は及ばないのですから)明寮を完全に空にすることはそもそも不可能だったのです。この不可能を可能にするために、被債務者まで有無を言わさず叩き出すために、この「強制執行」は仕組まれました。実際、立会人や説明も拒否したまま、明寮の約半分を占めていた被債務者部屋のほとんどはその日の内に荷物を運び出され、封鎖されました。「法」を執行するものが、違法行為を行い、それを公務員(教職員)が幇助するという許されざる事態が現出したのです。
 第一次「強制執行」では弁護士の奮闘により、四部屋の非債務者部屋の明け渡しを阻止することができました。しかし、この非債務者に対する「明渡断行」仮処分は、本人にも知らされないまま申し立てられ、そして秘密裏に決定が下されたのです。これは、第二次「強制執行」の現場ではじめて「仮処分」が行われていたことが明らかになるという異常な事態を生み出しました。そしてまた違法な強制執行が繰り返されたのです。

2.4 「明け渡し」本裁判提訴

 仮処分で完全に寮を潰せなかった東大当局(及び国)は、97年8月の第二次占有移転禁止仮処分を経て、97年10月1日についに寮自治会をはじめとする3団体、44名の個人を相手取り、東京地裁に「明け渡し」本裁判を提訴します。仮処分によっても駒場寮を潰せなかったという東大当局の「挫折」は、度重なる学生の反対、ねばり強い寮生の闘いによって幾度も阻まれてきた駒場寮「廃寮」を再考する貴重な機会でした。少なくとも、学内での話し合い、という(より民主的・理性的な)合意形成を主眼とした解決の場へ回帰する選択肢は取り得たはずです。しかし、本裁判提訴というそれとは正反対の道を当局執行部は選択しました。それは何らの「解決」にも帰着しないばかりか(はたして裁判が強制執行の導入以外の何をもたらすというのでしょう)、一審判決の下った現在そのもたらす影響は、大学自治・学内民主主義にとって致命的なものとなりつつあるのです。
 提訴後、夏休み以外は概ね2ヶ月ごとに口頭弁論が行われました。しかし現行の日本の裁判制度の下では、「口頭弁論」とは名ばかりで弁論が行われることはほとんどなく、ただ口頭弁論の「準備」として補完的に用いられるはずの「準備書面」の提出と次回の日程調整だけで概ね終わってしまいます。ですから開廷から5分で閉廷することも珍しくありません。駒場寮弁護団としては学生が多く傍聴していることもあり、できうる限り口頭で弁論を行おうとしましたが、それに比して国・東大当局側の訟務検事(法務省の役人)は法廷では「書面通りです」以外の発言は全くと言っていいほど行いませんでした。

2.5 証人尋問を認めさせる運動

 99年7月28日、両者の書面での主張がほぼ出そろったことを受けて、今後の裁判についての進行協議が原告、被告、東京地裁の三者間で行われました。寮自治会はそもそもこの問題を裁判で「解決」するのはふさわしくないが、仮に裁判を進めるにあたっても、この問題は、教育の機会均等・大学の自治など非常に重要な問題を内包するものであるから、十分な事実調べ、すなわち十分な証人尋問を行うべきだと主張しました。しかし、早期結審を何よりも求める国・東大当局はこの問題はただの国有財産法の法解釈で全て片づくので、事実調べなどいっさい必要ないと主張し、裁判官もこれに同調する姿勢を示したのです。
 裁判で事実に関して争いのある時、証人尋問を行わないということは一般的にありません。証人尋問を行わないという姿勢は端的に審理を十分にせずに判決を下すことを意味しているのです。寮自治会はこのような裁判官の不当な態度に対し進行協議の場で強く証人尋問を行うよう求めると共に、裁判所の外でも「証人尋問の実施と慎重な審理を求める要請書」集めや、地裁前でのビラ撒き、進行協議への結集行動などの運動に取り組み始めました。この結果、署名は最終的には3300筆以上、また教職員からも署名が20筆以上集まるに至ったのです。
 こういった広範な運動の結果、裁判所は10月1日の進行協議で証人尋問は必要ないとの見解を改め、証人尋問を少ない人数ながら(寮自治会は当初20人以上の証人を申し立てていた)行う姿勢を示しました。元寮委員長の成瀬氏(1981〜1984在寮)、現寮生の須藤氏、学部長特別補佐の永野教授の3人が証人に認められ、12月に証人尋問が行われました。

2.6 判決言い渡しから強制執行停止決定まで

 2回の証人尋問の後、3月3日に最後の口頭弁論が行われました。最終弁論では3人の寮生が口頭陳述を行い寮の意義、「廃寮」の不当性などを直に訴えました。しかし国・東大当局はこれに対し何ら発言せず、最後まで官僚的態度を貫いたのです。
そして3月28日、東京地裁にて明け渡しを命ずる不当判決が言い渡されました。さらにこの判決には国・東大当局が強く要請していた「仮執行」宣言が付帯していたのです。「仮執行」宣言とは判決が確定していなくとも執行する権利を与えるものであり、これが付帯することによって一審判決のみによって強制執行を行うことが可能となります。東大当局が主張していた「公正な第三者の判断を仰ぐ」という言葉はただの建前であり、三審制の司法制度すらないがしろにし、判決確定を待たずに「強制執行」さえできればそれでいいという裁判提訴の真の目論見が再度明らかになったのです。しかし寮自治会はこれを受け、判決を不服・審理不足として直ちに東京高裁に控訴するとともに、実力での寮生叩き出しを阻止するために強制執行停止申し立てを行いました。東京地裁はこの申し立てを「理由がある」と認め、3月31日強制執行停止決定が出されたのです。学部当局の寮生叩き出しは東京地裁にも否定され、またも頓挫したのです。

3. 証人尋問

3.1 成瀬豊氏:元寮委員長

3.1.1 寮側代理人による尋問 - 84年の負担区分合意書の経緯について
 わたしは81年から84年3月まで在寮し、寮委員長、寮委員などとして学部との交渉に出席した。
 81年の入寮当時、駒場寮は照明倍化・電気容量3倍化の要求を大学にしていた。教養学部当局はそれを実現するには負担区分問題を解決しなければいけないと主張し、この段階で負担区分はすでに問題化していた。

3.1.1.1 負担区分問題の発端
 64年、文部省から大学に、「学寮における経費の負担区分について」なる文書が通達された(=負担区分通達 2.18通達)。が、わたしの入寮時の東大では、水道・電気は大学が全額負担し、燃料費の一部を寮が負担していて、実際は通達の通りではなかった。
 79年に会計検査院から、駒場寮の水光熱費の負担区分について「予算の適正な執行でない」と東大に指摘があり、総長は当事者である寮生の意見を一切聞かないまま「できるだけ早期に実施・努力する」と回答していた。このことが82年に教養学部当局から寮生に知らされ、問題になった。
 82年1月に寮自治会と団体交渉がもたれ、学部は負担区分通達について以下のように確認した。
1. 負担区分通達は遺憾(理由=1.全国一津の基準を機械的に適用するもの、2.大学自治になじまない、3.受益者負担主義により寮生の負担が増える)。
2. 駒場寮の負担区分は、その特殊性にそって合理的に定める。
3. 概算要求を伴う要求事項については、負担区分問題解決後、すみやかに実現するよう双方が努力する。
4. 今後文部省の新たな介入があれば、双方で協議して対処する。

3.1.1.2 負担区分問題の再燃と解決
 ところが学部当局は、83年5月に文部省から、今年中に通達通り負担区分を実施せよと強く指導され、大学・学生寮個別に具体的な対応方針を指示されると、82年の確認事項とは反する早急な要求をするようになった。学部当局は文部省の指導のもと、寮自治会にさまざまな圧力を加えてきたが、最終的には84年春に、82年の確認事項の立場に立ち戻り、それにそった内容で合意文書(=84合意書)が作られ、負担区分問題は解決した。

3.1.1.3 84合意書  84合意書では、寮生は水光熱費の一部を駒場寮独自の(つまり負担区分通達にそわない)基準に基づいて負担する旨が記されており、合意書の付属確認事項でその解説がなされている。
1.「従来からの大学自治の原則」とは、68-69年の東大闘争での10項目確認書を指す。
2.「寮自治の慣行」とは、教養学部と寮自治会との取り決め・合意に基づいて寮自治会が寮の管理運営を行うことを指す。
3.「第八委員会は、事前に大学の諸機関に反映するよう努力する」とは、発端になった79年の会計検査院に対する総長の回答のようなことをくり返さないための予防措置。ここは当局と大きな議論をしたところ。草案では「総長の公的な意志表明」とあったが、大学の意志表明は総長に限らないため、行政官庁と大学の職員・事務官との折衝も含められるようにと「大学の公的な意志表明」となった。草案での「事前に寮生の意見を充分に把握・検討して」は、寮生の意見は聞いたが反映させる時間がなかったとなってはまずいということで、「事前に大学の諸機関に反映」になった。実際、84年の概算要求事項(案)は、83年秋に当局から寮委員会が受け取っている。照明倍化・電気容量3倍化の要求に対し、大学が努力をしているという根拠として寮に開示したのだ。これは第3項の具体的な事例。
4. 「新入寮生募集停止の措置を望むものではない」。学部は、通達の実施を83年末までにせよという文部省にしたがって、さもなくば新入寮生募集を停止するという脅迫をした。これに対する謝罪と反省の意味が込められている。今後、文部省から新々寮化攻撃や廃寮攻撃があった場合、新入寮生募集停止のような措置は取らないという意志表明だ。

3.1.1.4 学部当局の寮に対する考え
 文部省のいう「新々寮」(=学生寮の建て替えを認める条件)、1.全室個室、2.食堂なし、3.管理運営責任の明確化、4.負担区分の明確化(=寮生が水光熱費を負担)について。83年当時の第八委員長・藤本先生、第八委員の西川先生、菊池先生、84年学部長の小出先生、評議員・青柳先生らは、「新々寮は東大にはなじまないもの。負担区分の明確化は寮生の勉学の機会を減らすもの。入退寮選考は自治の経験になる」と言っていた。
 当局は83年に文書や交渉の席で「駒場寮は、柱、壁がしっかりした建物なので、改修すれば2、30年は使える」と言っていた。当局に寮の改修・長期使用の意思があることを示す84年の資料もある。また、84年9月ごろ、菊池昌典教授は「電気・照明はちゃんと要求している。今後も引き続き寮の改修をやっていく」とわたしに語った。87年には浴室移設の合意が結ばれており、大学は寮を長期使用するつもりだったことがわかる。87年の向ヶ岡寮のパーティでも、有馬総長から「浴室を今度見に行く。大事に使ってくれ」と言われた。
 そうした経緯から考えると、事前に寮に情報を開示せず意見も聞かない今回の廃寮決定は、全く予想だにできないことだと思う。

3.1.1.5 寮自治会による管理運営
 寮の管理運営は、ずっと寮自治会が行っていた。
 寄宿寮規約に寮運営の規定があり、寮自治会は、総代会・寮委員会・懲罰委員会という三権分立の諸機関を設置している。これは名目でなく実質的に機能していた。
(1) 入寮選考
 入寮選考・退寮の決定については、方法・発表の手続きが寮規約に記されている。
 管理部内規に基づき、学生課の掲示板に入寮募集の掲示をさせ、また、募集案内と入寮願書を東京大学が新入生に配布する書類に入れさせていた。大学も新入寮生の募集に協力していたのだ。入寮願書は寮委員会が提出先であり、学部に届け出たり学部から許可証をもらうなどといったことはありえなかった。
 寮生の異動については、毎月初めに入退寮者を学生課に届けるという事後的な報告のみ。学部が直接入寮を許可したり退寮させたりということはありえなかった。

(2) 入寮許可証問題
 64年に文部省が、学寮を管理運営する規則(=○管規)を作り、各大学に行政指導をした。
 これをきっかけに「入寮許可証問題」が起こる。それまでは、寮が入寮選考後、白紙の入寮許可証を大学から受け取っていた。このやり方は○管規に反するので、学部長が新入寮生個々人に直接入寮許可証を発行し、かわりに寮籍表を受け取るという形に改めたいと学部は要求。紛争になり、寮と学部との交渉の結果、66年の最終案では「矢内原方式」(入寮内定者名簿と引き換えに白紙の入寮許可証を寮が受け取る=一括承認)の慣行を守ることで決着した。
 わたしの在寮時には、届け出はもっと簡略化され、入寮許可証すらなかったし大学への寮籍表の提出もなかった。東大闘争を経て、意味がないからということで廃止されたと聞いている。

(3) 寮で働く職員の雇用
 寮務室で電話番をしたり郵便物の整理をしたりする寮フさんの採用に当たっては、寮生の意見・希望が尊重された。人事権は学部にあるが、働く場は寮だから。後任者の雇用も、寮生の提案を受けて決めることが確認されていた。
 寮食堂の経営も寮が実際に行っていた。81年3月まで食事部が、炊フさんとの賃金交渉・雇用の形態・メニュー設定・食材の調達・食券の管理などを行っていた。
 寮生のアルバイトであるボイラーマンは、寮委員会が雇い、学部と寮委員会が形式的に契約をすることにより賃金は学部から支払われていた。
 教職員の寮内立ち入りには、事前連絡が必要だった。
 このように、寮委員会がほぼ全面的に寮を管理していたのだ。

3.1.1.6 最後に
(1) 学生寮の意義はわたしの在寮当時と今も変わらない。
 19から20歳くらいの学生にとって、共同生活というのは非常に重要で、わたしの場合もそうだった。立花隆ゼミのインタビューでも答えたことだが、寮に入ったのは、わたしにとっては「第二の誕生日」であると思う。寮の中では、生活していく上で、いろいろな意見の違う人、気にくわない人とも共同しなければいけない。そういう人と協力して共同性を養っていくことは、今も今後も変わらない、寮という共同生活の意義だと思う。
(2) 廃寮問題が起きた91年以前と91年以後の駒場寮生には大きな違いがあると、当事者たちと接して思う。
 わたしも含めた91年以前の寮OBには、大学や理性というものに対する信頼があり、理性にそって大学と交渉し合意を見たことは実現されるんだという確信に近いものがあった。それに対し、大学当局・教養学部当局は、今回の問題の過程で、寮との約束を一切反故にするやり方をしてきたため、91年以後の寮生からは、大学当局への非常に大きな不信、さらには人間不信を感じる。91年以後、累計で数百人の寮生を送りだしているが、東京大学が教育機関を名乗るなら、こういうやり方をしていっていいのだろうか。
(3) 裁判所にお願いしたいのは、国有財産法などいろいろな法律が問題になっているが、個々の条文のみにとらわれることなく、それぞれの立法趣旨を考えていただきたいということだ。大学の自治、大学と寮自治会とのいろいろな合意・取り決めを尊重して判断をしてくださるようお願いしたい。

3.1.2 国側代理人による尋問
−(84合意書の)確認事項にある「寮生活に重大なかかわりを持つ問題について大学の公的な意志表明があるときは…」、これは概算要求なども含む趣旨だと証言されたが、84年に概算要求案を受領されて以降も、関連する概算要求がなされる度に寮自治会に対してそれが示されてきたのか。
その後ずっとかどうかはわからないが、少なくとも数回は示されたと聞いている。具体的には、照明倍化、電気容量3倍化、各部屋のドア・窓枠の改修費用の概算要求だと記憶している。

3.1.3 裁判長からの質問
裁判長:最後に述べられた3つの項目は、それはそれで理解した。が、廃寮に異議を唱える中で、一番大事だと裁判所に考えてほしいことは何なのか。一言で言うと何になるのか。大学の自治と言ってもそれ自体固定不変なものではないはずだし、とすると何を考えてくれということなのか。
固定不変でないと言われたが、それぞれの時代に即した大学自治はあると思う。それを踏まえてもなお、やはり現在の駒場寮廃寮のあり方は、大学の自治にそぐわないやり方で進められていると思う。

3.2 須藤虎太郎氏:元寮委員長、現寮委員

3.2.1 寮側代理人による尋問 - 廃寮決定の不当性、学部の違法行為、寮の価値・意義について
3.2.1.1 91.10.9教授会での廃寮決定
 駒場寮の廃寮決定は、91年10月9日の臨時教授会で、三鷹国際学生宿舎建設とセットという形で、学生・寮生との相談なく、突然決められた。学生・寮生は、決定直後に噂として聞き、至急、事実確認のため原田義也・教養学部長に公開質問状を提出した。その結果、三鷹寮と駒場寮を廃寮にして三鷹に国際学生宿舎を建設する計画が決定したこと、三鷹国際学生宿舎特別委員会(永野三郎教授が委員長)を設置することがわかった。
 10月15日の評議会で計画は承認され、17日に「21世紀の学生宿舎を目指して」が発表された。

3.2.1.2 10.9教授会決定以前
 10月9日の教授会決定以前には、廃寮計画が存在するという説明は一切なかった。
 7月の定例学部交渉(年2回)のときは、寮の建て替えや新寮の建設について具体的な計画はないという説明だった。その裏で東大当局は、三鷹に国際学生宿舎を建設する計画を立て、概算要求をしていた。学生・寮生に隠して、だましていた。

3.2.1.3 総代会・代議員大会/学部当局
 11月11日の寮総代会で、話し合いが不十分だから予算請求を1年待て、駒場寮の廃寮を前提とするなという決議を上げた。代議員大会でも同様。いずれも廃寮反対の意思を明確に示した。
 学部当局はそれに誠実に対応しなかった。11月20日の学部交渉で、永野教授は「強い反対は見られないので計画は実行する」「ここで止めると東大のメンツを失う」と発言。
 92年2月24日の学部当局との交渉では、「駒場寮という学寮は不要。廃寮は予算獲得の道具」だと発言した。

3.2.1.4 学部当局の問題点
(1) 廃寮決定の手続きは、84合意書・69東大確認書に違反している。東大確認書に明記されている全構成員自治を尊重せず、学生に隠したまま計画を決定した。寮生の意見を十分に把握検討するどころか、計画の存在すら知らされなかった点で、84合意書にも違反している。

(2) 数百回にわたる話し合いを行ってきたと大学当局は言っているが、10月9日の教授会決定以前には、話し合いは1度もなかった。決定後の話し合いは、廃寮を前提にして寮生に押しつけるもの。廃寮の是非は議題にならなかった。とても話し合いと呼べるものではなかった。

(3) 教養学部の多数の学生の意思
 93、94年と教養学部生がストライキを行った。95年2月には学生投票が行われ、駒場寮の存続を求める趣旨の主文が約4000人(7割以上)の賛成で批准された。数千筆の署名を学部当局に提出。学生は毎年継続的に反対の意思を表明してきた。

(4) 学部当局の対応・暴力
 学部は多数の学生の意思を無視し、95年度以降の入寮募集停止を通達。95年には廃寮通告、96年3月には廃寮宣言を強行した。96年以降は、寮生を追い出すためにさまざまな嫌がらせ、暴力行為を行ってきた。96年4月には、電気・ガスを突然停止。教官の集団(いわゆる説得隊)が多勢でたびたび寮に押しかけ、寮生に圧力をかけた。なかには住人に平手打ちをする、窓ガラスを割るなどの乱暴狼藉を働く者もいた。
 96年6月3日、寮食堂から電気を引いていた電気コードリールを50個盗んでいった。いまだに返却されていない。
 97年3月、明渡断行仮処分によって明寮は明渡しを強制されて取り壊された。この仮処分の審理中、各債務者あてに教養学部長名で、執行費用(総額約1億円以上)の支払いのため将来の就職後の給料が差し押さえられる可能性もあるという脅しの文書が郵送され、裁判所から注意を受けた。
 97年6月28日、北寮裏の工事を強行、ガードマン数百名を雇って、なぐる、けるの暴力によって学生を排除した。
 98年9月、南ホールの火災の混乱に乗じて、南ホールへの電気供給を停止。寮生は半年間電気のない生活を強いられた。
 99年1月、ガードマン数百名を雇って南ホールを暴力的に取り壊した。
 寮生個人や親にまで恫喝文書を郵送。寮生であるというだけの理由で教室の貸し出しを拒否するいやがらせも。
 こうしたさまざまな卑劣な行為は、廃寮に熱心な学部執行部と三鷹特別委の人間が主になって行われた。

(5) 学部当局を批判する教官の存在
 教授のなかには執行部の方針に批判的な意見も多く聞かれた。小川晴久教授、高橋宗五助教授は今回の裁判で陳述書を出されている。96年4月の電気・ガス停止に対し、教養学部の教職員組合は抗議声明を発表した。
 97年5月の教授会で、廃寮に批判的な三教官から解決に向けた提案が出された。1.CCCL計画を見直す。2.駒場寮地区に学生と院生が自主的に活動できる空間を作る。3.学生と院生が話し合いに参加できる条件を保障する。4.募金活動の用意があることという内容。三鷹特別委がとりあえず検討することになったと聞いた。この提案は、駒場寮問題を学内の話し合いで解決していこうというものであり、評価できる。わたしたち駒場寮生が学内での話し合い解決を望む気持ちは今も変わらない。

3.2.1.5 寮の管理/運営
寮生が居住する部屋を決める手続き
 寮生は、入寮願いを寮委員会に提出し、許可をもらうという手続き。年2回、同室願いを寮委員会に提出する。
 寮委員会が寮全体を管理している。個々の寮生は自分の居住する部屋だけを管理している。
 入寮に当たっては、自主規律三原則を守ることを誓約させている。よって不法滞在はない。

3.2.1.6 駒場寮の存在意義
(1) 入寮の動機
 実家から通学に片道2時間ちょっとかかる。勉強、アルバイトもしたいので大学の近くに住みたいが、家庭が裕福なわけでもないので駒場寮なら金銭的にも大丈夫だと入寮した。

(2) 経済面の意義
 寮生は経済的困窮者が多い。アンケート調査の結果では、寮生の約3割は家庭からの仕送りをもらっていない。教育費の負担も増えている。現在、入学金、授業料合わせて約75万。今年度から国立大学の授業料にスライド制も導入された。
 そんななか、入寮しなければ学生を続けられない者がいる。親がリストラされたり、4人兄弟だったり。貧しいから大学で学ぶことができない者に、教育を受ける権利、教育の機会均等が保障されるべき。そのために駒場寮の果たす役割は大きい。

(3) 自治活動の場
 キャンパス内にあるため、昔からクラスのたまり場の役割。学園祭の準備で、たくさんのクラスがクラスルームを利用している。
 サークル活動の場としても重要な役割。時間の制約なしに活動できる。実験のいそがしい理系、アルバイトで忙しい学生にとって必要。7000人の学生に対して、今サークルスペースは足りないから、駒場寮は大きな役割を果たしている。
 勉強だけでなく、クラス、サークルの自主的活動を通して成長していくことも学生にとって必要。

(4) 相部屋の共同生活の意義
 他人と共同生活をするのは初めてだった。様々な価値観をもった人が集まっていて、共に生活をしながら率直に意見をぶつけ合い議論している。いろんな人の考えを知ることができたし、人間的にも成長したと思う。これは一生の財産。共同生活は非常に意義のあるもの。

(5) 三鷹国際学生宿舎
 三鷹国際学生宿舎は、全室が個室なので交流が非常に少ない。共同生活で得られるものがないので、駒場寮の代替にはならない。

(6) 自治
 駒場寮は自治寮で、管理運営は昔から寮生自身が行ってきた。多くの寮生みんなが納得できるように、寮内で議論を十分に尽くして民主的に決定してきた。共同スペースの掃除から、大学との交渉に臨む方針まで。その実践のなかで民主主義の大切さを学ぶことができた。
 入寮選考権を寮自治会が持っていることは、教育の機会均等を保障する上で必要。三鷹国際学生宿舎では親の収入で機械的に選考で落とされた者が、駒場寮では個別の事情を考慮してもらい入寮できたという例がある。そういう柔軟な対応ができる。

(7) 敷地周辺の豊かな自然
 寮の周辺には、メタセコイアなど非常に多くの貴重な樹木ある。この豊かな自然を全部壊す廃寮計画は、自然環境の保護の点でも問題がある。たぬきやオオサンショウウオが住んでいるという話を聞いたことがある。

3.2.1.7 まとめ
 大学当局は寮生・学生に事前に一切相談しなかった。合意書、確認書に違反し、民主主義を踏みにじって一方的に決定を行った。
 対して、寮は、教育の機会均等の保障、学生の自主的活動の場、共同生活からかけがえのないいろいろなものを得られる、などの非常に大事な役割を果たしている。
 大学当局は暴力的・非人道的手段をとって駒場寮をつぶそうとしてきた。これは決して許されないことだと思う。
 わたし自身にとって、多くの学生にとって駒場寮は必要。わたしだけでなく、多くの学生が駒場寮の存続を求め、廃寮に反対している。

−[加藤弁護士]95年以降は自主入寮募集をしているわけだが、寮委員会はきちっと審査をしているんですね。
はい。
−どの時点でだれがどの部屋にいるか、寮委員会では把握していると。
はい。
−寮委員会がきちっとした審査をしないでだれでも住みたい人はどうぞというようなことは一度もやったことはないですね。
そのようなことはありません。
−[中西弁護士]電気は現代生活ではライフラインだと思うが、学部に電気を止められたとき、完全にもうバチンと消えて真っ暗になったわけですか。
はい。真っ暗になりました。
−「学生の皆さんへ」という文書で当局は、CCCL計画が進まないので居残っている学生には悪いけど止めたと言っている。皆さんはこれをどう受け止めましたか。
とんでもない文書で、自分たちのひどい行いを棚に上げて、よくこんなことが言えるなあと思ったのを覚えています。
−CCCL計画も、学生自治会や寮委員会に事前に話があって進められたものではないですね。
そうですね。突然提示されたものだと思います。
−さきほど学部が話し合いに応じるなら話し合う気はあると言いましたが、寮自治会全体でもそういう意向なんですか。
はい。話し合いという形での解決を求めています。

3.2.2 国側代理人による尋問
−寮自治の主体はだれだと考えていますか。
寮生一人ひとりが主体であり、全寮生によって構成される寮自治会が組織として寮自治を担っていると思います。
−本郷生、女子学生の入寮許可はいつからか。
女子学生は95年から。本郷生は正式な寮生とは異なる。
−それは寄宿寮規約を改正したのか。
いや、本郷生については新たな規定を定めたと記憶しています。
−入寮を許可すべきものは教養学部に在学中の男子に限ると規約にあるが。
男子に限るという点については改正した。

3.2.3 裁判長からの質問
裁判長:駒場寮の中で、そこを一つの象徴にして、自治とか、かけがえのないいろんな価値を育むものとかが行われてきた、それを残せと訴えているわけですね。
はい、そうです。
裁判長:この先、どんなふうなこととしてそれを考えているのか。いつまでも続くわけはないのだから。
50年、60年は持つ頑丈な建物だから、今の建物を残していけばよいのですが、逆に50年、60年たって、今の建物が使えなくなったら、別の建物でその役割を代替していけばよいと思います。
裁判長:今聞いているのは、50年、60年後にはどうするつもりかということを聞いているわけですよ。そんなにかけがえのないものなら、どうやってそれを維持していくのかということも当然ディスカッションしているはずですからね。50年や100年なんて短いんだから。 そうですね。今の建物が使えなくなるときが来たら、そういう役割を果たしうる建物を造って、継承、維持していくことにするのがよいと思います。
裁判長:今の場所にですか。
それは50年なり60年後の学生が、大学側と話し合って一番よい場所に決めればよいと思います。

3.3 永野三郎教授:前三鷹特別委委員長、現学部長特別補佐(2000年4月時点)

 1999年12月21日に、駒場寮「明け渡し」裁判において永野三郎学部長特別補佐の証人尋問が行われた。主に、永野教官は、「廃寮」決定のプロセスについてと駒場寮の管理形態についての証言を行った。この証人尋問において永野教官は「「廃寮」計画は91年10月以降であっても撤回はあり得る」と証言している。しかし、同時に「予算化のプロセス」を考えれば、「計画」は秘密裡に策定する必要があった、とも証言しているのである。この2つの発言を照らし合わせると、結論として
『"三鷹宿舎建設=駒場寮「廃寮」"計画は91年10月以前に既に「秘密裡にして」完成させる必要があった。学生はこの「計画」に"Yes"or"No"を3ヶ月で決めなければならず、「計画」そのものの策定には、当事者であっても関われなかった』と、なるのである。
 このことからも、駒場寮「廃寮」計画が91年10月以前に既に秘密裡に進められていて、明らかに、「学生も固有の権利を持って大学の自治を形成している」ことを大学当局との間で確認した「東大確認書」や「寮生活に重大な関わりを持つ問題について大学の公的な意思表明があるときは寮生の意見を充分に把握・検討して、事前に大学の諸機関に反映させるよう努力する」ことを駒場寮自治会と大学当局との間で確認した「84合意書」に違反しているのである。
 さらに、この駒場寮「廃寮」計画を遂行するために、電気・ガス供給停止や数百名のガードマンを導入などの"実力攻撃"を行っているが、これらについても基本的に「問題がない」としている。
 ここでは証人尋問調書をもとに永野教官の発言について扱ってみたい。

 主尋問(国・大学当局側の証人尋問)において永野教官は、最終的な「廃寮」決定は、「予算」と「学生からの意見聴取」の2つをもとに行った、と証言している。ここでいう"予算"とは、91年12月の予算内示・92年7月の予算示達のことである。もう少し平たく言えば、91年12月末の予算内定と92年7月の予算確定といった感じであろうか?また「学生の意見」は、91年10月文書配布と公開説明会の開催、11月と12月に行われた学生との話し合い(学部交渉)、91年12月に学生に対して行ったアンケート(学生の1割を無作為で選び出して対象とする)を指す。
 確かに「三鷹国際学生宿舎建設計画」基本方針を91年10月9日に決定したが、その後でもこの「計画」は撤回できるし、学生に対しても「計画」を説明した、と、あくまで駒場寮「廃寮」決定のプロセスには何の問題もない、というのである。
 しかし、その後証人尋問を行っていくうちに「廃寮」決定のプロセスが非常に問題であることが、動かしがたい事実となったのである。

 主尋問の後の反対尋問(駒場寮側の証人尋問)で永野教官は、91年3月に概算要求頭出しをして、その後、学部長が文部省と予算の折衝を行っており、91年7月時点においては既に「駒場寮「廃寮」とセットとなった三鷹国際学生宿舎建設計画」として折衝を行っている、と証言している。つまり、この時点で大学当局にとっては駒場寮「廃寮」反対とは、「三鷹宿舎建設」に反対することと『同値』であり切り離せないものとなっているのである。その後、8月に入り、「駒場寮「廃寮」=三鷹宿舎建設」計画の予算化のメドが立ち、10月9日の教養学部臨時教授会での計画方針の「決定」が行われるのである。そして教授会決定後、ようやく10月17日に学生に対して、予算化のメドが既に立っていて教授会で方針「決定」した「計画」を公開したのである。つまり、「駒場寮「廃寮」=三鷹宿舎建設」で予算を獲得しようと(寮生にも学生にも隠して)学部長が文部省と折衝していたこと、そしてその後秘密裡のまま臨時教授会において「駒場寮「廃寮」=三鷹宿舎建設」計画を「決定」したのである。このように見てくると、大学当局にとっては、「学生は大学自治の当事者」でもなく、「寮生活に重大な関わりを持つ問題について大学の公的な意思表明があるときは寮生の意見を充分に把握・検討して、事前に大学の諸機関に反映させるよう努力」も全くしなかったことに他ならない。永野教官自らの証言によって、大学当局による「廃寮」決定のプロセスの不当性が明らかにされたのである。
 さらに、そのようにして大学当局により一方的に決定された駒場寮「廃寮」に対して、「駒場寮は『用途廃止』された」ことをもって電気・ガスの供給は「あり得ない」として、供給停止を現在に至っても継続している状況である。ここでいう『用途廃止』とは、「建物を"寮"として使用しない」という行政決定であるが、この手続き自体、大学内部で全てなされるものであり、文部省や大蔵省が関わるようなものではなく、このような自家撞着の論理(大学が一方的に決定したのに対して、「"決定された"から電気・ガスを供給停止する」という論理)を決して見逃すことはできない。また、ガードマンの大量導入によって、学生を強制排除して「廃寮」計画を強行する姿勢には、一貫して「学生≠大学自治を形成する主体」「学生≠合意形成の対象」という、大学当局の論理が象徴的にあらわれているのではないだろうか?

「・・・少なくとも91年3月以降の概算要求から具体的な折衝の段階で、(駒場寮「廃寮」と三鷹宿舎建設の)抱き合わせであれば予算がつく可能性が高いと判断したと。誰がどこで決めてそういう折衝をしているのですか」
「学部長ならびに学部長室です」
「・・・教授会の中でも議論をしないまま予算の折衝だけが先に進むということについておかしいとは思いませんか」
「思いません」
「・・・学部長がなぜ学生に事前に(予算折衝の中身の)話をしなかったんですか」 「それは文書を出し(91年)12月末の内示までに議論をして"やる"か"やらない"かを決めればいいということです」
「・・・(学生には)三鷹宿舎をやめるか、それとも進めるか、どちらつかずのまま一時待ってくれということはあり得ないということを申しました。」
「・・・結局(予算が)つきそうだから教授会で決めました、12月末までにはっきりさせないとつきません、2ヶ月で(YesかNoを)決めろと、学生に対してはこういう話ですか」
「まあそうですね」
「・・・概算要求頭出し(シラバス)を出してそれが予算化されてしまうと、それは次の年に通るか通らないかだから、相当、事態としては切迫してくるんですよね」
「はい」
「・・・頭出し自体が重い意味があるのだから、その時点で学生に意見を聞いておくべきだとは(永野)証人は思わないのですか」
「多分無理だろうと思います。概算要求そのものは一般に秘密事項です。アイデアが外に漏れてしまっては意味がないわけですから、新しいことをしようと思えば秘密裡に進めていって実現しそうな段階でオープンにして議論するというのが普通のやり方です」
「・・・そうしたら、文部省に駒場寮の「廃寮」を前提にした計画に基づく予算請求をするということは、この大学の公的な意思表示があることに入らないんですか」
「入らないと考えています。概算要求は必ず見せますなんて約束はどこにもないんです」
「・・・(電気・ガス供給停止について)社会的な道義について考えはしませんでしたか」
「用途廃止した建物に電気・ガスを供給し続けることはあり得ない。大学としての管理責任として、供給するわけにはいかないということで供給をストップしました」
「・・・大量のガードマンの方が寮の警備をやったりしているんですが、この費用は学部がもっているんですか」
「東京大学全体だと思います」
「今までにどれくらい使っていらっしゃるんでしょう」
「私は知る立場にありません。聞きたくありません。(私は)大学の決定を学生さんにお伝えし、学生さんの希望を大学に伝えるという意味で、そういう役割の責任者です」
(要するに、学生は大学自治の主体ではなく、"希望や不満"を述べる存在に過ぎず、合意形成には関わらない存在であるということ)

 また同時に永野教官は、文部省による教育政策(大学審答申)を逸脱するものは「予算が認められない」から無理・あり得ないという論理をあからさまに表明した。このような、予算誘導による文部省の大学統制を無前提に受け入れる証言を行ったことは極めて重大かつ遺憾なことである。学問の自主性や大学の自立は、それ自身が常に批判的な視点を持ちつつも、決して国家やましてや財界・産業界に従属・統制されてはならないはずである。またそれは全国の教職員・学生をはじめとして多くの人々が懸念を表明する「外部評価により、学問の自由が失われる」国立大学の「独立行政法人化」の問題性と相通ずるものがある。このことについて見逃してはならないのは、今回の証言で永野教官自ら、予算化のプロセスにおいて、「当局執行部のみが関わっていて、教授会構成員すら中身を知らなかった・知ることもできなかった」ことについて、「おかしいとは思わない」としていて、学部長室を中心とする学部当局執行部の独裁を肯定している点である。「当局執行部の独裁」が容認されるならば、すべては執行部の独裁で物事が決まっていくのならば、それに対して我々は、教職員をも含めた大学の構成員は、一体どうすることができようか?このようなことは絶対に許してはならないのである。

 そのような永野教官の「学生」に対する評価として、次の発言は象徴的ではないだろうか?

「・・・(99年12月実施の学生投票において、「「廃寮」計画をいったん取りやめ、学生との合意に基づくキャンパスづくりを行うことを求める」主文が過半数の賛成で批准されたことをもって)過半数の学生が今日でも駒場寮の「廃寮」に反対しているという事実については?」
「・・・今いくら反対したって、それは無意味だということを何度も申し上げてきた」

 ならば、いつならば有意味だったかと言えば、繰り返すとおり証言全体から見るに、91年10月9日以後、寮生・学生に「計画」が知らされて以降は存在しないのである。当時から「三鷹宿舎」か「駒場寮」かの2者択一しかあり得ず(∵「予算化のプロセス」から)しかも「先送り無し、待ったなし」の選択の強要であったし、その状況における当時の学生の、「駒場寮「廃寮」に反対」「三鷹宿舎建設予算請求の1年見送り要求」などの意思表明は「無意味」であった(両立し得ない要求であるから)。しかし、学部当局にとって「両立し得ない」要求は、とどのつまり学部当局の「決定」に反対であることに他ならなかったのである。
 要するに、学生の意思表明は概算要求以前で組み込まれなければならなかった、ということである。これが「学生も自治の主体であり」、前述の成瀬氏の証言にもあった「84合意書」の核心(概算要求においても寮生との合意によって進めること)だったのではないだろうか。
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