5.1.1 「廃寮」の不法な意図
政府・文部省は一貫して学生寮における寮生の自治を敵視し、予算配分などの権限を利用して、寮自治破壊の政策を各大学に押しつけようとしてきました。駒場寮の「廃寮」は、三鷹国際学生宿舎の建設と駒場寮「廃寮」をセットのものとして予算請求をしたことに端を発していますが、これは新寮の建設予算は自治寮の否定と引き替えでしか出さないという政府・文部省の学寮政策を大学が自ら受け入れたことを意味しています。つまり、この駒場寮問題は政府・文部省の学生自治・寮自治潰しの政策を東京大学において実行し、そのことによって予算を得ようとしたものであり、その目的は本来の学生寮の維持発展という観点からみればはなはだ不法なものと言わざるを得ません。少なくとも80年代までは大学自治を根拠に政府・文部省と独自の見解に立ち、大学自治を擁護する立場で学生とともに政府・文部省に抗してきた東大当局が、自ら屈服し、学生自治・寮自治を否定する立場を取ったことは、駒場寮問題のみならず東大における大学自治そのものの否定にもつながりかねない極めて危険な事態なのです。そして、実際の「廃寮」決定とその後の学生を全く無視した形での「廃寮」計画の強行は、そのような危険性が現実のものとなっていることを意味しています。
5.1.2 国・東大当局には明け渡しを求める必要性はない
(1) 「廃寮」の「理由」は後付けのものである
駒場寮「廃寮」の理由として、東大当局は「キャンパス再開発」「老朽化」などを挙げていますが、跡地計画は91年10月の「廃寮」決定の際には全く具体化していなかったし、老朽化の事実もありませんでした。また最大の根拠として挙げる「三鷹宿舎の建設」のためという理由も、なぜ駒場寮「廃寮」とセットでなければならないかの合理的な説明はなされていません。特に、91年以前に、三鷹寮だけの建て替え計画を要求していた事実に照らせば、セットでなければならないという理由はないことになります。
学内に対しては秘密裏に進めていた文部省との交渉において、勝手に執行部が約束してしまった駒場寮「廃寮」は、執行部の「文部省に対するメンツ」を守るという以上の「理由」は持ち得ないのです。なにより、「理由」自体が後付けとして語られ、説明が転々と変遷すること自体が、「廃寮」の「理由」に合理性のないことを示しています。「理由」が存在しないのならば、明け渡しを請求する必要性・合理性は存在しません。
(2) 「跡地」計画の不合理性
国・東大当局は裁判において、CCCL計画実施のために駒場寮「廃寮」、そして明け渡しが必要であると主張しています。しかし駒場寮の「跡地」計画としてのCCCL計画は、「廃寮」決定の2年近く後に発表されたものであり、後付けのものと言うことができます。また、募金を主体とするというこの計画は、現在破綻しており当初の計画図は跡形もなく改変されています。このようにCCCL計画は、93年にカラーパンフレットまで作って学生を欺き利益誘導を図ったにもかかわらず、ほとんど具体化することなく破綻し、まさに「絵に描いた餅」となったのです。この計画を「廃寮」の合理的理由とすることは不可能です。
また「CCCL計画の精神は生きている(つまり具体化は不可能)」として、現在駒場寮の「跡地」計画は、98年12月に教授会で承認された駒場Tキャンパス整備計画、通称マスタープランの中に併合されています。国・東大当局は同様に駒場寮の存在によって、「跡地」の建物の建設が著しく阻害されているかのように主張しています。しかし、そのいずれも何故駒場寮「跡地」でなければならないかの合理的な説明はなく、また駒場寮「廃寮」を遂行しなくとも建設は可能なものです。意図的に駒場寮「跡地」に各種建物の建て替え計画を押し込め、駒場寮「廃寮」を合理化しようとすることは、今後のキャンパスづくりにとって悪影響しかもたらしません。
(3) 老朽化の嘘
駒場寮と同時期に同様の様式で建築されたのが教養学部の一号館です。もし、駒場寮が老朽化したというのであれば、一号館も取り壊さねばなりません。いずれの建物も、関東大震災の反省に基づき、当時の最新の建築手法と表現様式を取り入れた最高水準の建築なのです。駒場寮は東大当局の長年にわたる補修のサボタージュによって、見た目こそ古びてはいるものの、その基本構造の堅牢さは依然として使用に十分に耐えるものです。
実際、90年頃に工学部の教授が「学内の中で一番丈夫なのは工学部一号館で二番目が駒場寮。駒場寮はあと50年はもつ」といい、「廃寮」が持ち上がるまでは学生課も「目黒区で最も丈夫な建物」と述べていたのです。また、96年に一級建築士に見てもらったところ、使用に何ら問題はない、と評価されています。これらのことからもわかるように、駒場寮は老朽化していないばかりか、戦前の貴重な建築物として残すべき価値のあるものなのです。
また、駒場寮の維持費は年間1000〜1500万円程度であり、じつにキャンパスプラザ予算12億数千万円もあれば、100年は維持管理ができるのです(ちなみにCCCL計画の募金予定額は40億)。駒場寮を壊すことは税金の無駄遣いという観点からも許されるものではありません。
(4) 自然環境の破壊
駒場寮の存在するキャンパス東部地区は豊富な植生と、生物相、一二郎池の湧水をもつ貴重な自然環境です。すでに明寮及び、寮食堂の破壊によって驚くほど多くの自然が失われました。このような大規模な自然破壊を再度繰り返し、キャンパスを貧しいものとしてはならないのです。
5.1.3 重大な手続き違反
3.3.2で述べたとおり、東大当局は重大な手続き違反を繰り返して「廃寮」を決定しており、これが権利濫用にあたることは明白です。
5.1.4 違法な自力救済行為
東大当局は96年4月以降、実力行使を含むあらゆる手段を行使して寮生を駒場寮から追い出そうとしてきました。このような行為の数々は民間の一般の明け渡し事件でも例を見ないほどの執拗かつ違法性の高いものでした。このような行為を繰り返しながら、それが功を奏しないとみるや、裁判所に明け渡しを求めるというのは、裁判所に法秩序を無視した行為に手を貸せといっているのに等しく、クリーンハンズ(司法の助けを借りる者は違法行為を行っていてはならない)の原則に反し、許されないのです。つまり、このような違法な自力救済を行ってきた東大当局は裁判による解決を求める資格はないのです。
(1)説得隊による生活破壊、監禁、暴行、窃盗
(2)電気・ガスの一方的供給停止
(3)将来の給料まで差し押さえるとの「明け渡し」費用「一億円」恫喝
(4)仮処分執行の際の非債務者まで叩き出す違法行為
(5)六月二八日の北寮裏渡り廊下破壊の際の暴行事件
(6)放火を利用した停電攻撃
(7)寮食堂取り壊し強行
(8)教室貸し出し拒否をはじめとした寮生に対する差別的取り扱い などなど
なお、以上の事件に対し本冊子で詳述することは避けますが、これらの詳しい内容については寮委員会発行の「駒場寮『廃寮』の不当性解説集」をご参照ください。
5.1.5 失われるものの大きさははかりしれない
5.1.5.1 教育の機会均等を保障する場
(1) 学生が学生であり続けられるために
駒場寮の果たしている意義の根幹にあるものとして、「教育の機会均等」を保障する福利厚生施設であることが挙げられます。学費・入学金の着実な値上げ、学費スライド制の導入などによって、高等教育における教育を受けるためにかかる経済的負担は増加の一途をたどっています。さらに、自宅外生は極めて高額な東京の生活費を負担せねばなりません。一月の生活費は16万近くに達し(1998年学生生活実態調査によれば157,500円)、学費とあわせれば20万円に近く、学業に専念するどころか学生であり続けること自体が極めて困難な状況にあるのです。
東大生の親の平均年収が1,000万円を超えているとはいえ、それは経済的に厳しい学生がいないことを示すものでは決してありません。また、東大生の家庭の年収が最高水準であることは、逆説的に年収が低い家庭の学生は東大に来ることが相対的に困難であることをあらわしているのです。入試(東大入試を突破するには特に受験のための負担が必要であることを含めて)が経済的選別装置としての側面を強く持っていることを忘れてはなりません。
このような状況の中で、駒場寮は住居を保障し負担を低廉に抑えることによって、学生が学生であり続けること、また経済的理由で進学を断念する受験生を少しでも減らすことを助けているのです。特に不況が長引く中、リストラで父親が失業する、下宿のアパートの取り壊しで住処を奪われる、そのような学生が後を絶たず、駒場寮に助けを求めてきます。駒場寮は、何か起きても何とかなる、いわば学生の「駆け込み寺」のような機能も果たしてきました。
(2) 学寮定員の不足と駒場寮生の生活実態
駒場寮の必要性は、三鷹宿舎に入りきれない学生が多数存在することからも、具体的、現実的に明らかです。三鷹宿舎の最近の入寮倍率は約二〜三倍ですから、毎年、三鷹国際学生宿舎を申し込んだ学生のうち数百名は入寮できないこととなります。しかも、約2〜3倍という入寮倍率についても、三鷹宿舎は倍率が高いとの情報があらかじめ新入生にも伝わっている現状においての倍率であり、潜在的な入寮希望者は更に多いと考えられます。
また、駒場寮には東大当局の「入寮は違法」「法的不利益を被る」「寮生の話に耳を傾けないように」などというあからさまな恫喝、悪質かつ執拗な宣伝にもかかわらず、毎年数十人(99年度は50人近く)の新入生が入寮します。これは駒場寮の需要の高さをあらわすと共に、学寮定員の不足を裏付けてもいるのです。
では、実際の駒場寮生の生活実態を寮委員会によるアンケート調査から見てみましょう。調査によれば、寮生の生活費の平均は約6万円であり、これは自宅外生の3分の1近い額です。また、東大の他の学寮生・三鷹宿舎生の約10万円と比べてもかなり低くおさえられています。さらに駒場寮生の実家からの仕送りの平均はわずか2万5千円程度であり、これは自宅外生の約12万4千円の5分の1、学寮生・宿舎生の約6万5千円と比べても4割程度に留まるものです。この内駒場寮生の3割は仕送りを受けていません。これらの事実から、駒場寮が実際に生活費の負担を極めて低く保つことに寄与していること(低廉な経常費、共同生活、自炊環境、立地条件などによって)、家庭からの仕送りが少ない学生の生活を保障していることがわかります。
このように、駒場寮生は真に駒場寮を必要としているのであり、それによって学生でありつづけることが可能となっています。駒場寮生から見れば東大生の平均である月20万円の負担とは殺人的なものであり、それが強いられれば「退学」以外に道はないのです。
5.1.5.2 寮内外の学生の交流の場
(1)寮外生との交流の場
駒場寮は学内寮であり、これは学内交流の活発な拠点として駒場寮が機能する最大の条件となっています。狭い上に、片道1時間近くかかってしまう「三鷹宿舎」でこの機能を代替することは到底不可能です。また、大人数が入るだけの広さが確保出来るか、隣の住人に迷惑にならないか、場所が分かりにくくないか、等の様々な問題から、近所の下宿でも代替することは容易ではありません。駒場寮は、相部屋制で部屋内自治が生きており、門限もないため、交流拠点たる条件が整っていると言えます。
このような条件に支えられ、駒場寮は学生同士の交流の場となってきました。寮生のクラスやサークルの友人が遊びに来ては、授業の空きコマにくつろいだり、酒を飲みながら夜を徹して議論を交わしたり。このような光景は、昔から続く駒場寮の「伝統」とも言うべきものです。その中から、多くのものが生まれてきました。
(2)クラスルーム
96年以降の学部当局の「廃寮」宣言と熾烈な恫喝によって寮生数が4分の1にも減少してしまい、寮に足を踏み入れたことすらない学生が増えました。これは当然、学内交流の場としての駒場寮の在り方を破壊するものでした。
そこで駒場寮自治会は、寮生につてのない学生でも駒場寮に居場所を持てるようにして、人と人との交流の場を回復するため、クラスルームを開設しました。そして開設以来4年以上が経過し、現在クラスルームは駒場祭の準備などで使用されるなど、一学期に50クラス以上が利用するクラス活動の拠点として定着しています。
(3)サークルスペースとして
駒場寮は長年、サークル活動の拠点でもありました。24時間使用可能であり、居住とサークル活動が不可分に連続した空間は、極めて自由度の高いサークルスペースとして機能してきたのです。夜遅くまでかかる駒場祭の準備や夜を徹しての活動・交流などは駒場寮でなければ不可能です。また、学業やバイトで忙しい学生が時間的制約を気にせずサークル活動ができることは、自己実現・人間形成という「教育」の重要な側面を保障しているということもできます。
さらに、教養学部には7000人を超える学生が在籍しているのに対し、駒場寮を除けばサークルスペースは学生会館とキャンパスプラザのみであり、サークルスペースが不足している現状があります。このような中で、駒場寮を潰すことはサークル活動にとっても致命的な打撃を招くものなのです。
(4)寮祭
年に二回行われる寮祭は、駒場祭とならんで学生による自主的な「祭り」として長い歴史を持っています。93年の加藤登紀子コンサートや、毎年寮前に屹立する巨大立て看板、夜を徹して続く各種企画など「廃寮」後も寮祭は依然として大きな盛り上がりを見せています。「廃寮」は駒場の学生文化の一つである寮祭も当然葬り去ることとなるのです。
(5)貸出施設
寮生のつながり、クラスルーム、寮内サークルなど多くの回路によって駒場寮は寮外生とつながっています。しかし、それらの何れのつながりもない学生に対しても駒場寮はいくつかの貸出施設を設置しています。会議室やコンパルーム、印刷室などがそれにあたります。また、北寮0Sには寮生の手によって運営されているカフェがあり、実費でコーヒーなどを飲むことができます。このような場所が学内で駒場寮にしかないことを見ても、駒場寮の自主管理・自主運営のなし得ることの大きさがわかります。
(6)仮宿泊制度
駒場寮は居住施設ですから、寮外生でも友人やサークルの部屋、クラスルームに泊まることが可能です。また、一泊200円で宿泊することのできる仮宿部屋(女子仮宿部屋)も設置されています。寮生の親族、知人、又は高校生以上の学生であれば宿泊することができ、地方、そして海外(外国の学生寮は宿泊可能な場合が多い)から東京に訪れた多くの学生がこれを利用しています。これは社会的共通資産としての駒場寮の価値を示すものでもあります。
5.1.5.3 三鷹国際学生宿舎は代替施設とはならない
駒場寮の福利厚生得施設としての機能は三鷹宿舎で代替された、というのが国・東大当局の主張です。しかし、三鷹宿舎は以下のような点で駒場寮の代替とはなり得ません。
(1) 寮生の経済的負担の増大
まず三鷹宿舎は駒場寮に比べ、経済的負担が大幅に増大します。@水光熱費の完全学生負担、A八倍以上の寄宿料、Bかさむ外食費(自炊設備が貧弱)、C通学に要する定期代、D通学時間のロスによるアルバイトへの影響、E奨学金制度の不備、などの点で三鷹宿舎は駒場寮に比べ数倍の経済的負担を要するのです。
特に「受益者負担主義」の貫徹には触れなければなりません。「受益者負担主義」は60年代の高度経済成長期を通じて生み出された考え方で、要するに教育を受ければその個人が見返りを得るのだから、それ相応の負担をしろ、というものです。しかし、本来教育とは社会(≠企業)に還元されるべきものとして行われ、その成果は社会に還元されることが要請されているものです。学歴を付与する大学教育は個人の利益につながるという「受益者負担主義」は、学歴一辺倒の価値観を肯定し、またそのような社会の在り方を追認し、教育を金で売買すべき商品に転落させて、「教育の機会均等」を否定するものに他なりません。
三鷹宿舎は水光熱費が全額学生負担であり、その徹底振りはプリペイドシステムによって、入金が0円になると自動的に電気がストップするという具合です。電力会社・ガス会社との直接契約でもこんなことは行われません。これは大学側は1銭たりとも払わないぞ、という決意表明に他ならないのですが、最初からこのような制度になっていれば、「受益者負担主義」を当然のものとして学生が"学習"する装置として機能することは明白です。
(2) 学生自治の欠如
2.1.2で例証したように駒場寮では徹底した寮生による自主管理・運営が行われており、これらは寮規約に基づく寮委員長選挙(年3回)・総代会(月1回)・寮委員会(週2回)・寮生会議(月2回程度)・フロア会議(月1回)などでの民主的意思決定をその基盤としています。しかし、三鷹宿舎では全寮的な民主的意思決定が恒常的に為されることはなく、また自主管理・運営も入退寮選考権から、部屋割り、共用部分の管理まで実質的には完全に大学当局に譲り渡している状態にあります。駒場寮の自治権が全く奪われるような形態を「代替」と言うことはできません。
駒場寮の入退寮選考は一貫して寮生自身の手によって行われてきました。選考基準は基本的に家庭の収入状況ですが、それだけで割り切れない個別の事情にも柔軟に対応して行っています(例えば、一度社会人になった後に学生になったような人で、既に親から自立しているような場合、家庭の収入状況は考慮しません)。しかし、三鷹宿舎では関東近県に実家を有する学生、最短修業年限を超える学生は、応募資格すら認められません。とくに、留年者を排除するという規則は、様々な事情(学費を稼ぐためにアルバイトを多くやらざるを得なかったためや、希望進学先に内定出来なかったために自主留年するケースなどもあります)で留年を余儀なくされた学生にとっては、奨学金ストップと「三鷹」追放のダブルパンチを受けることになる訳です。学生であり続けることが困難になる状況に陥るのです。
このような入退寮選考権をはじめとした寮自治の剥奪について、永野尋問においてその問題性が改めて明らかになりました。
弁護士:寮自治についての長年確立してきた慣行、運用については、学生の意見を聞くまでもなく撤廃を決定したと。それは当局の責任であるということですね。
永野:選考の結果について、不審、疑問があれば、いくらでもそれを問い合わせて説明を要求する余地を残してあるのが現在の選考基準ですから、その点においては何ら問題がないと考えております。
「説明を要求する余地」があれば問題ないのであれば、寮自治会が入退寮選考権を保持し続けても良いはずです。「何ら問題がない」と開き直るところに、確信犯的な東大当局の自治・自主管理破壊の意思があらわれているのです。
(3) 交流・共同性の消滅
三鷹宿舎は、全室個室で、交流も非常に少ない場であり、駒場寮で得られる共同生活での交流や人間的成長を得ることは極めて困難となっています。寮自治の欠如、個室、そして大学当局による管理は、寮生が顔を合わせる必要性すら奪ってしまったのです。三鷹宿舎には局所的に偏在する「近所付き合い」はあったとしても、共同性は存在しないのです。
5.1.5.4 有機生命体としての駒場寮
駒場寮に於ける自治・自主的活動は、そこに住み、出入りする人の数だけの大小様々な要素が不可分に絡み合った上に成り立つ、創造的営為であり、かつ創造的営為であることを目指すものです。そして、駒場寮とは居住とサークル活動が、交流と生活が、自主管理と議論が渾然一体となった有機生命体なのです。
東大当局は、駒場寮の「居住機能は三鷹、サークルスペース機能はキャンパスプラザ」に「代替」されたと主張します。そのそれぞれが全く代替となり得ないことは、事実の問題として確認することができます。三鷹に自治が、共同性がどれほどあるでしょうか。寮に比べてキャンパスプラザが、どの程度活動の自由度を保っているでしょうか。
さらに、東大当局の機能分解論は、現在の駒場寮に存在している有機的結合・それを可能とした寮自治の文脈から強制的に「機能」を解体し、断片化し、矮小化するものなのです。そしてそのように解体された「機能」の断片は既に「死んだ」かけらに過ぎなくなってしまうのです。
5.1.6 多くの学生の今なお反対する駒場寮「廃寮」
国・東大当局は、駒場寮廃寮を前提とした計画が「圧倒的多数の大学関係者の支持を受けた再開発計画」と主張しています。しかしこれは明らかな虚偽の主張です。学生は駒場寮「廃寮」の反対や、「CCCL計画」の白紙撤回を繰り返し、最高議決機関における決議、ストライキ、学生投票などの手段で訴えてきました(4.1参照)。最近では、99年の12月に「駒場寮「廃寮」計画をいったん取りやめ、学生との合意に基づくキャンパスづくりを行うことを求めよう。」という主文について学生投票が行われ、2,300票以上の賛成で批准されました。これは、学部当局が、「学生のみなさんへ」と題する駒場寮「廃寮」を正当化する文書を全学生に配布するという激しい妨害活動を行う中で得られた結果であり、学生の確固たる廃寮反対の意思を示したものと言えます。
教養学部は、学部の性格上、二年間でほとんどの学生が入れ替わってしまうのですが、にもかかわらず廃寮決定後8年余、東大当局の「廃寮」宣言後約4年を経た現在も駒場寮の廃寮に反対する意見が多数を占めていることは、特筆すべきことがらと言えます。これは、駒場寮の必要性を示すものであるとともに、廃寮決定のやり方が誰の目から見ても大学自治の原則や正義に反するものであり、「圧倒的多数の大学関係者」の批判を受けていることを示すものなのです。
5.2 国・東大当局の主張━「寮生に占有権原がないから、権利濫用ではない」
寮自治会の権利濫用との主張を受けた国・東大当局の反論は「被告らはなんら駒場寮の占有権原を有していないので保護すべき利益はなく、国・東大当局の明け渡しの権利行使は正当である。」というものであり、また、(学部当局が入寮募集を認めていた)94年以前の入寮者に対しても「教養学部長がした駒場寮への入寮許可は、公法上の占有権原を設定する性格を有するものではなく、右入寮許可に基づく占有使用は法的保護の対象となるものではない。右入寮許可による使用は、本件建物を学生寮としての用に供していたことによる反射的利益にすぎない。」としています。また、「国・東大当局は跡地の有効利用を図るために明け渡しを求めており、さらに代替の三鷹宿舎を整備した上で駒場寮を廃寮とし、被告らに退去を促した。以上のような事情に照らせば、駒場寮の明け渡しは権利の濫用ではない。」と主張しています。
5.2.2 国・東大当局の主張の問題性
権利濫用は主に「廃寮」に理由がないこと、失われるものが大きいこと、「廃寮」強行に当たって数々の違法行為があったことなどが寮自治会から主張されています。これに対する国・東大当局の主張は以上のように何ら内容のないものとなっています。
まず、寮自治会側が訴えた「廃寮」によって多くの価値が失われ、寮生は住居を失うという主張には、「占有権原がない」ので「保護すべき利益はない」と断じています。しかし、このような状況に追い込んだのが東大当局である以上、それをもって何をしても権利濫用でないというのは誤っています(それとも、96年4月以前ならば権利濫用であったとでも言うのでしょうか)。次に、4.3.2(3)でも述べたように、「入寮許可に基づく占有使用は法的保護の対象となるものではない」という寮生の居住権の矮小化がここでも主張されています。これはいつでも寮生は寮から追い出すことができるという、極めて乱暴な法解釈なのです。また国・東大当局の、学部長が入寮許可を与えていたという誤った主張に則っても、94年以前に入寮した寮生は占有権があることとなるのですが、この入寮許可をなんとか行政上の根拠なく取り消すために、ここでは「入寮許可による使用」は「反射的利益に過ぎない」という主張が行われているのです。
寮自治会側の、跡地の利用計画が後付けのものであり、駒場寮の跡地に建設する必要は何れの施設もないこと。三鷹宿舎は駒場寮の代替にはなり得ないこと、等の主張に対する反論はここでは全くなされていません。ただ、そのような跡地計画があり、三鷹宿舎を建設したことを示すのみなのです。
そして数々の「廃寮」の実力的強行、電気・ガスの停止などの自力救済行為などに対しても弁明すらしていません。これらの「廃寮」強行の問題性についてはここでも議論から逃げ、寮生に占有権がないことを繰り返すのみなのです。寮自治会が問題となる行為を例示して権利濫用であると主張しているのに比して、国・東大当局はそれらを無視したままでただ「権利濫用ではない」と何の論証もなく主張しているだけなのです。ここでも都合が悪いことは議論せず、という国・東大当局のこの裁判における不当な姿勢が現れています。
5.3 東京地裁の「判断」とその問題性
5.3.1 東京地裁の「判断」
地裁は「廃寮」決定及び明け渡し請求は何れも「権利濫用ではない」との判断を行っています。その理由として、「学長による本件廃寮決定は法律に基づく適法な処分である」こと、「教養学部は94年11月の時点において本件建物を96年3月31日をもって廃寮にする方針である旨を学生に対して伝え」「駒場寮の正規の入寮者については三鷹国際学生宿舎に優先的に入寮できるように手続を開始し」たので「被告らの占有は法的保護に値するものということはできないこと」等の「事実」によって、「本件廃寮決定及び本訴請求はいずれも権利の濫用に当たるとはいえない」と述べています。また、「前提事実のとおり、駒場寮を廃寮にして本件建物の明渡しを求めることは教養学部の駒場キャンパスの再開発計画の一環として必要であること」、「教養学部は学寮の代替施設として三鷹国際学生宿舎を建設したこと」、「教養学部は駒場寮を廃寮とする前に入寮募集を停止するとともに平成八年三月三一日までに退寮するように駒場寮在寮者に再三にわたって求めたにもかかわらず、被告らは本件建物に残留していたこと」等の「事実」が認められるので「本件廃寮決定及び本訴請求が権利の濫用に当たると解することはできない」とされています。
5.3.2 東京地裁の「判断」の問題性
権利濫用とは、国・東大当局側準備書面にもあるように「権利濫用の成否は、当該権利行使とこれによる利益とこれにより相手方の被る不利益との比較衡量によるべき」ものであり、駒場寮問題全体の事実、問題性を正確かつ十分に把握したうえで総合的な判断が要求されるものです。しかし、権利濫用ではないとする地裁が判断として引いている「……等の事実」は多くの誤認を含むとともに、明らかに偏ったものであることをまず指摘しておきます。列挙すると「94年11月の『入寮募集停止』通達」「三鷹国際学生宿舎の建設(92年10月〜95年4月)」「95年10月の学長による『廃寮』決定」「96年3月31日までに退寮するように駒場寮在寮者に再三にわたって求めたこと」「96年3月からの三鷹宿舎への駒場寮生受け入れ措置」「現在まで寮生が居住していること」「現在まで自主入寮募集を行っていること」「駒場寮の明け渡しは駒場キャンパスの再開発計画の一環として必要」といったことが例示されている「事実」です。
まず、「既に判示したとおり、学長による本件廃寮決定は法律に基づく適法な処分である」というのは「廃寮」決定が「行政処分」という判断に基づいているのですが、これが誤りであることは、4.2.2及び4.4.2(2)において既に述べました。そもそも「廃寮」決定が適法かどうかについては、91年の教授会決定に言及すらせずに判断することはできないというべきです。また、三鷹宿舎が代替となり得ないという議論に言及することなく、三鷹宿舎を建てたことを理由として挙げること、同様に跡地計画の不合理性(5.1.2(2)参照)に言及することなく、「再開発計画の一環として必要」と断じるのはまさに地裁の判断自体に「理由がない」というべきです。
また、先ほど列挙した権利濫用でないとする「事実」は「廃寮」に関わる各種通達、及び寮生の現在の居住を挙げたのみであり、全て国・学部当局の主張を鵜呑みにしたものとなっています。では、なぜ寮自治会が主張した「東大『確認書』違反」「八四『合意書』違反」「91年7月の交渉での計画の隠蔽」「91年10月の教授会決定」「91年11月の学生自治団体の反対決議」「93年、94年のストライキ及び95年、96年、99年の学生投票」「電気・ガスの供給停止」「三鷹宿舎では代替できない多くの価値」などは「事実」として挙げられず、議論の俎上にものらないのでしょうか。権利濫用が「相手方(寮生・学生)の被る不利益との比較衡量によるべき」なら、なぜその「不利益」が精査されないのでしょうか。なぜ、「前提事実」でも認定せざるを得なかった八四合意書違反の91年教授会での「廃寮」決定がここでは全く触れられていないのか。それこそがこの駒場寮問題の発端であり、最大の「問題」とされた地点のはずです。
このように極めて偏った「事実」だけに基づき、あいも変わらず本質的な問題についての議論・判断を回避するような「判断」は無効なものなのです。
5.4 「明け渡し」請求は権利濫用か
5.1で詳述したように、不当な「廃寮」決定に基づく「明け渡し」請求は権利濫用というべきです。しかし、国・東大当局、東京地裁は権利濫用であるとして寮自治会が例示した91年「廃寮」決定の不当性、東大当局の暴挙、明け渡しの必要性がないこと、失われる価値などについての議論に立ち入ろうともしません。しかし、これらは駒場寮「問題」の本質的な地点であり、学内でも裁判においても議論を避けては通れないはずです。このような議論に立ち入らないこと自体が、問題の本質などどうでも良いから早く「明け渡し」判決を出して、「強制執行」をしたいという国・東大当局の意図や、問題の本質に立ち入ると寮自治会側の正当性を認めざるを得なくなるため法律の形式的解釈以上の「判断」をしない裁判所の姿勢を、端的にあらわしているのです。
東大当局は三鷹建設も跡地計画も全て学生のためだと主張します。では、学生の多くが未だに「廃寮」に反対している事実は何を示すのでしょうか。そして東大当局が「圧倒的多数の大学関係者の支持を受けた」という「跡地」計画が何の学生の支持も得ていないこともまた事実なのです。学生のためをうたう跡地計画で得られる利益と、それによって学生にもたらされる不利益を比較して権利濫用かどうか決めるのであれば、学生の意思は最大限に考慮されなければなりません。しかし判決は学生の支持を得ていない「跡地」計画のために、学生が反対する「廃寮」は問題ないとの「判断」を示したのです。そして、その根拠はただ行政主体である東大当局が権利濫用でないと主張しているから、ということによっているのです。このように「廃寮」問題における権利濫用は学生の意思を考慮することなくして「判断」できません。にも関わらず、その意思を無視して下された「判断」は全く無効なものなのです。