第三部-4 争点に関する三者の主張とその分析

4. 「廃寮」決定の有効性
 「廃寮」決定の有効性は「廃寮」決定の経緯と不可分なものです。まず、年表を提示した上で、「廃寮」決定とはいつ行われたのか、そしてその問題性とはどこにあるのか、それは有効なものなのかを論じたいと思います。

4.1 年表

1979年三鷹寮敷地の非効率利用を会計検査院が指摘
1984年5月24日東大当局(第八委員会)と寮自治会が「八四合意書」を締結。「寮生活に重大なかかわりを持つ問題について大学の公的な意志表明があるとき、第八委員会は、寮生の意見を十分に把握・検討して、事前に大学の諸機関に反映させるよう努力する」旨を約する
9月27日菊池第八委員会委員長、次期委員会に「駒場・三鷹寮の存続可否の長期プラン作成について老朽化→廃寮ではなく、改修→長期化を選択した」旨を引き継ぐ
1987年6月22日東大当局(第八委員会)と寮自治会が「駒場寮浴室の移設についての合意書」を締結
1988年大蔵省関東財務局、三鷹寮敷地を「不効率利用国有地」に指定
1990年3月東大当局、三鷹寮の増築を計画し、「国際学生寄宿寮」建設の予算を概算要求頭出し
1991年3月東大当局、駒場寮「廃寮」と三鷹寮増築を計画し、「三鷹国際学生宿舎」建設の予算を概算要求頭出し(三鷹寮+駒場寮の面積を基準とし、留学生分を上乗せ)
7月東大当局、総長交渉の席上、駒場寮の廃寮は考えていない旨説明
7月学部交渉で、「寮の建て替え計画があるか」との学生側からの質問に対し、「東大7寮全体の建て替えが必要だが、具体的計画には至っていない。学寮委員会で検討中」と回答。「具体的段階に入ったら学生、特に寮生と話し合うか」という質問には、「予算がつくなど具体化すれば学生と話し合う」と回答
8月三鷹国際学生宿舎予算化の可能性急浮上
10月9日学部当局、臨時教授会において、駒場寮及び三鷹寮の「廃寮」と三鷹国際学生宿舎の建設を決定。三鷹国際学生宿舎特別委員会(委員長永野三郎教授)設置
10月15日評議会で教養学部教授会の決定を追認
10月17日「21世紀の学生宿舎を目指して」を配付
基本方針(1) 千人規模       
      (2) 日本人学生と外国人留学生の混住とし比率は7:3。女子学生を含む
      (3) 個室、食堂なし。補食用設備、共用施設の充実
      (4) 大学が建物の管理および入寮選考に責任を持つ
      (5) 年次計画の進行に伴い、三鷹寮・駒場寮は順次廃寮とする
11月12日学生自治会代議員大会、学友会総会、駒場寮総代会で初めて学生の対応を決定
自治会:(1) 駒場寮の抱き合わせ廃寮に反対
     (2) 駒場寮の建替、駒場寮の改修を要求
     (3) 学内議論のために三鷹計画の予算請求を一年待つこと
学友会:(1) サークルの利益が廃寮によって侵害されないこと
     (2) 計画遂行にあたっては学生の要求を取り入れること
駒場寮:(1) 三鷹に新寮を建設せよ、ただし駒場寮廃寮を前提としないこと
     (2) 建設は学内の合意を得た後に着手せよ
11月14日学部交渉(計2回)で学生が要求した11項目のうち8項目については合意が得られたが、
28日@三鷹に新寮を建設すること、その際駒場寮の廃寮を前提としない、
A新寮建設に当たっては全構成員自治の立場に立って充分な討論をし、合意後に着手すること、
B本年度は予算要求は行わないこと、
の3項目について合意できなかった。学部は、「現状では強い反対は見られないので、予算要求は止められない、新宿舎計画は進める」と計画の強行を宣言
12月6日学部が新宿舎計画についてのアンケートを「三鷹国際学生宿舎に関する計画説明書」を添えて開始
12月予算の内示
1992年1月13日「三鷹国際学生宿舎建設について」を配付。その中でアンケート結果を公表:891名にアンケート用紙を配布し、回収はわずか468名(52.5%)。計画に賛成72.4%(338名)。反対4.3%。学部は計画の推進を宣言
2月24日三鷹特別委、交渉の席上、駒場寮という学寮は不要である、「廃寮」は予算獲得の道具であると説明。
5月21日駒場寮総代会:困窮学生を救済し、サ−クル・クラスなどの自主的活動を保障するため、駒場寮の一方的廃寮に反対
6月11日学生自治会代議員大会:苦学生に新たな経済負担を課し、サ−クルなど学生の自主的活動に障害を持ち込むような駒場寮の一方的廃寮を行うな
7月予算の示達
10月8日三鷹国際学生宿舎第T期工事着工
1993年2月24日駒場寮と特別委員会との交渉駒場寮自治会:学内世論が高まって例えば「駒場を残して三鷹も進める」という署名が7割集まっても駒場をつぶすんですか特別委員長:そうなったら三鷹の建設は中止する。それで駒場が残る
5月26日三鷹国際学生宿舎第T期工事竣工(175室)
6月1日三鷹国際学生宿舎入居開始(旧三鷹寮を廃寮)
6月30日公開説明会 駒場寮跡地の再開発計画としてCCCL(Center for Creative Campus Life )構想を発表、駒場寮入寮停止と「廃寮」のタイムスケジュ−ルを提示
7月27日駒場寮委員会、駒場寮存続を求める署名 (2,500筆)
11月19日ストライキ(批准投票: 賛成3,508、 反対927)
1994年11月14日学部長から駒場寮委員会に対し、95年度からの「入寮募集停止」を「通達」しようとした。
12月2日ストライキ(批准投票:賛成2,604、反対1,338)。学生自治会委員長が入寮募集停止通達に対する抗議文を学部長あて提出
1995年10月17日東京大学名の駒場寮「廃寮」「告示」および教養学部の「特別措置」(95年3月31日以前からの駒場寮在寮者への三鷹国際学生宿舎への入居案内。サークルには新施設が完成するまでの過渡期も含めて活動に支障のないよう配慮)を掲示・伝達。学部長が告示を口頭で読み上げたが、学生の抗議行動により、学生には伝わらなかった。その後予備交渉により学生と学部長の話し合い(交渉)をもつとにした
12月7日代議員大会決定の全学批准投票
(1)キャンパスプラザ白紙撤回(賛成3,095反対922)
(2)駒場寮存続または新学内寮の建設(賛成2,993 反対1,009)
1996年4月1日学部、「『廃寮』宣言」告示
1999年12月代議員大会決定の全学批准投票 駒場寮の「廃寮」をいったん取りやめ、合意に基づくキャンパスづくりを行うよう求めよう(賛成2,343 反対1,341)

4.2 寮自治会の主張
4.2.1 「廃寮」決定とその経緯
 一方的な「廃寮」決定の経緯と不当性に関しては、より詳しくは寮委員会発行の「寮問題の経緯と現状(入寮案内所収)」や、「駒場寮『廃寮』の不当性解説集」を参照していただきたいのですが、ここでは簡単に経緯の不当性について述べます。

4.2.1.1 「廃寮」浮上以前の東大当局の態度
 年表からもわかるように駒場寮「廃寮」が浮上する前、少なくとも1987年までの東大当局の姿勢は、東大「確認書」、八四合意書を守り寮自治会との合意のもとで寮についての問題を解決するというものでした。実際に浴室移転の際には概算要求事項案が寮生に示されています。
 学部当局は84年の負担区分闘争当時、「入寮募集停止」つまり「廃寮」すらちらつかせながら、寮生に負担区分の受け入れを迫りました。このような恫喝は全く不当なことですが、最終的には学部当局も本来の姿勢に立ち返り、両者が合意した八四合意書確認事項第五項には「第八委員会は、新入寮生募集停止の措置を望むものではない」ことが確認されたのです。また年表に示したとおり、84年時点での学部当局の駒場寮に対する長期的方針は「老朽化→廃寮ではなく、改修→長期化を選択した」とされたのです。

4.2.1.2 「廃寮」決定とはいつであったのか
 「廃寮」の意思決定がいつなされたのかは、その有効性を論じるために極めて重要な論点となります。国・東京大学が主張し、裁判所が追認したのは95年10月17日、しかし寮自治会は91年10月9日であると主張します。ここではこの「廃寮」の意思決定が行われた時を経緯をさかのぼりながら論証します。

(1) 「廃寮」告示 95年10月17日
 判決文では、95年10月が「廃寮」決定であると認定されています。しかし、これが事実に反していることは明らかです。なぜなら、駒場寮「廃寮」は三鷹計画とセットだということがその理由として語られており、判決の事実認定自身も「平成七年(1995年)四月までに六〇五室の居室が整備されるに至った」としているからです。605室とは現在の三鷹宿舎の居室数であり、現在の三鷹宿舎は95年4月で既に完成していたのです。セットとされた「廃寮」は東大当局の論理によれば、もはや覆すことが不可能でありその時点で意思決定がなされていなかったなどということはあり得ないのです。ですから95年に廃寮決定がなされたなどということは、東大当局は「学内」では口にしたこともない論理なのです。

(2) 三鷹宿舎着工 〜92年10月
 しかし、東京東大当局は学内においても、「廃寮」の意思決定、撤回不可能なものとしての「廃寮」決定、がいつなされたのか(いつまでが撤回可能だったのか)、明確に表明していません。永野尋問では91年末の予算の内示までが一つの目安であり、その次は予算が確定する92年夏の示達までであったと証言しています。そして92年の10月には三鷹宿舎は着工されます。駒場寮「廃寮」が三鷹建設の条件であったとすれば、少なくとも92年10月以前に意思決定は行われたことになります。(既に三鷹宿舎着工後の93年2月の学部交渉で「署名が集まれば、三鷹の工事を中止して駒場を残す」旨の発言を当時三鷹特別委委員長だった永野自身が行います。これについて永野尋問では中止とは三鷹宿舎自体を作らないということだ、という旨の証言をしています。しかし、既に一期工事を着工している宿舎の建設を途中で放り出し、三鷹の敷地に建設途上の建物だけが野ざらしになる状況を当局執行部が本気で想定していたとは思えません。つまり、この発言は学生世論へのリップサービスに過ぎなかったのです。)

(3) 推進宣言 91年11月〜92年1月
 当局は「廃寮」発表後、推進宣言を行います。まず、1991年の11月28日の学部交渉席上、そしてアンケート実施後の1992年の1月28日です。これらの宣言は前者は「現状では強い反対は見られない」こと、後者はアンケート結果をその根拠としています。では推進の意思決定は、学生の反応を見た上でこの宣言の直前になされたのでしょうか。

@ アンケート 92年1月13日
 学部当局は「アンケート」によって学生の意思を問うたことを「学生の賛成」の最大の根拠としています。しかしこのアンケートでは「廃寮」の是非を直接聞く質問はありません。さらに21問の質問の内三鷹宿舎に関連した質問は8問だけであり、それも「関心がありますか」「留学生を含む宿泊施設を建設することの社会的必要性についてどう思いますか」などとして誘導を図りながら、最後にたったひとつ「建設計画を進めることに対して、どのように考えるか」という設問が設定されているのです。駒場寮の「廃寮」やそれへの学生の反対の決議を隠蔽した上で、何の問題もないかのように三鷹計画を描き出しているのです。そもそもアンケートはその説明や設問の設定によって、いかようにも回答を引き出すことができます。ですからもしその結果に何らかの意味を持たせたいのであれば、両方の当事者が共同で製作するか、中立な第三者が製作する必要があります。また、事実認定でも「回答した者のうち7割以上の者(合計338名)がこれに賛成」と触れられているように、賛成した人数はわずか300名を超える程度です。これは後の署名や学生投票での「廃寮」反対の票数と比べても極めて少ない数なのです。このように一方の当事者である学部当局の恣意的な意図に基づくアンケートは、少なくとも議論された上で決議された代議員大会等の正式な決議に優先するものでは決してないのです。ですからこのアンケートを「廃寮」推進の根拠とすることはできないし、賛成が多数にのぼることがほとんど確実であった故に行われたこのアンケートをもって学生の意思を問うた上でそれに基づいて意思決定したということはできず、これ以前に「廃寮」の意思決定は行われていたのです。

A 総代会・代議員大会・学友会総会決議と学部交渉 91年11月12日〜91年11月28日
 では前者の「強い反対は見られない」ことを受けて、「廃寮」の意思決定はなされたのでしょうか。しかし年表からもわかるように、学生は「廃寮」計画の発表直後の総代会(寮)・代議員大会(クラス)・学友会総会(サークル)というそれぞれの最高意志決定機関において「廃寮」反対を決議しています。この後に「強い反対はない」という学部当局執行部による判断が下されるのですが、永野尋問ではこの「強い反対」とは「例えば、無期限ストライキが延々と続いて、学事歴が成り立たないというような状況は大きな反対だと考える」と答えています。しかし計画発表からわずか一ヶ月強で無期限ストライキ(東大闘争以来存在しない)をすることはほぼ確実に不可能であり、学生が反対しようが「推進」することはこの時点で決定していたといえるでしょう。

 つまり二つの推進宣言は学生の「反応」を見て意思決定がなされたのではなく、決定は既にされていた上での手続き上の「宣言」に過ぎないというのが正しい認識でしょう。つまり、この推進宣言の時点でも既に「廃寮」は撤回不可能なものだったのです。

(4) 臨時教授会 91年10月7日
 11月28日の最初の推進宣言からさらに遡ると、10月7日の臨時教授会に行き当たります。この臨時教授会は「廃寮」計画が初めて公になった場であり、駒場寮「廃寮」計画はその場で承認を受けました。この教授会での計画承認はたとえ拍手承認であれ意思決定行為といわざるをえず「廃寮」の意思決定といえるものです。
 ただし、教授会はもはや議論するような場ではなく、執行部から出された案をただ承認する場になっている、というのは多くの教官から聞かれる話です。駒場寮を「廃寮」にするかどうかは執行部以外の教官は教授会のその場で初めて提起された問題であり、しかしいつも通りそのまま承認したのです。さらにここでは事前に寮生と話し合うという八四合意書の存在を伏せたままで承認が行われました。84年以後に着任した教官が多い中にあって執行部が合意の存在を明らかにしなかったことは、寮生と話し合っていないという手続き的問題を隠蔽し、教授会構成員が適切な判断を下すことを妨げるためだったのです。

(5) 執行部の意思決定・概算要求 〜91年10月
 このように教授会がただの承認機関に成り下がっている以上、学部当局の実質的意思決定は学部当局執行部(学部長、評議員他で構成される学部長室)によって行われているというのが実態です。ではその意思決定はいつなされたのでしょうか。三鷹計画は91年の3月に概算要求がなされています。永野尋問によれば、「廃寮」を初めて検討したのはいつかという尋問に対しては、「それは私は知りうる立場にございません」として逃げているものの「概算要求を出す段階で三鷹寮並びに駒場寮の資格面積を使うということから、当然、三鷹宿舎を進めるからには駒場寮は廃寮になるということは、お考えになっていただろうと思います」という証言から、91年3月には(予算が付けばという条件があるにせよ)「廃寮」の執行部内での意思決定はなされていたことになります。そして、それに基づいて概算要求がなされたのです。
 にもかかわらず、91年7月の学部交渉及び総長交渉では建て替えは「具体的計画には至っていない」と既に「廃寮」の意思はあったにもかかわらずその存在を隠蔽しています。これは極めて悪質な計画隠しとして糾弾されなければなりません。

(6) 「廃寮」の意思決定はいつ行われたか
 長々と「廃寮」の意思決定はいつ行われたかについて述べてきましたが、まとめるならば執行部の意思決定は91年3月以前、それが変更不可能なものとなったのが、91年10月の臨時教授会での決定、ということができます。そして教授会決定までは計画は公的なものになっていない、として学生には明らかにされず、決定されてしまったらそれは無期限ストライキ以外では撤回できないものとなっているのです。つまりこの「廃寮」決定は徹頭徹尾学生の意見を聞くつもりはなく、それをいかに説得し、そのプロセスをいかに正当化するかということに多くの儀式(恣意的アンケートなど)が踏まれたのです。

4.2.1.3 「廃寮」決定後の経緯
 教授会での「廃寮」決定後も寮生・学生は一貫して反対の意思表示を続けてきました。年表でも解るように、1992年5月21日総代会、同年6月11日代議員大会、1993年1月22日総代会、同年7月27日駒場寮存続を求める署名2500筆、同年10月15日総代会、同年11月19日ストライキ、1994年4月存続を求める新入生署名2133筆、同年10月28日総代会、同年12月2日ストライキ、1995年12月7日全学投票などで、駒場寮廃寮に反対する意思を表明してきました。しかし、学部当局はこれらの反対に一切耳を貸さず、「何らのリスクも実効も少ないストライキ」「新入生諸君が経緯や状況を十分に把握した上で判断して署名したものとは到底考えられない」などとして3000人以上の「廃寮」反対の意思表示を「空虚な数字」と断じたのです。アンケートの300人の賛成をもって「廃寮」を推進した学部当局が、3000人以上の反対を黙殺したのです。
 そして96年以降は実力での寮生叩きだし、裁判提訴へと至ります。その行き着いた先としてのこの裁判は「廃寮」決定の不当性を論じることなく「判断」を下すことはできないのです。

4.2.2 「廃寮」決定の違法性
 このように、駒場寮「廃寮」は学生及び学生との合意を全く無視したまま決定されました。そのような「廃寮」決定は法的にも無効なものです。
 評議会で正式に確認され、東大「確認書」で明記された学生の「固有の権利」とは、東大当局が大学運営に当たって学生の意見にも耳を傾けるといったような「紳士協定」にとどまるものではなく、従来東大当局の専権事項とされてきた大学の意志決定過程や権利運営事項に学生の固有の権利を認めたものと解されます。つまり、大学の管理運営について東大当局のみが法的権限を有するとされていた事項について学生にもその権限を移譲すること、あるいは大学としての意思決定過程に学生が参加する権利を認めることにその主眼があったのです。なぜなら、東大当局を最終的には拘束しない、いざとなったらいくらでも反故にできるような「学生自治」が問い直されたのが東大闘争だったからです。
 また寮自治会と学部当局の間には明確な形で、意志決定における手続的要件を規定した八四合意書が存在します。特に、確認事項第三項は東大当局が駒場寮に関する重大な問題について、駒場寮自治会の意思を無視して一方的に決定をすることは許されないという当然の内容を再確認したものなのです。また成瀬証人の尋問では、「大学の公的な意思表示」とは「例えば概算要求に伴う、いろんな文部省の事務官と大学の事務官が折衝する場でとか、そういうことも含まれる」ことが明らかになっています。つまり、教授会決定がなければ公開すらできないという当局の主張それ自体が、概算要求など(大学の公的な意思表明)をする前(事前)に寮生の意見を反映する、という合意事項を守らないと宣言しているに等しいのです。これに対し永野教官は証人尋問において、「(概算要求は大学の公的な意思表示に)私は入らないと考えています。」「残っている文書はこれだけのものです。概算要求は必ず見せますなんて約束はどこにもないんです。」と答え、当時の第八委員会のメンバーなり委員長にそれは確認したのかという問いには「いいえ、ありません。」「その必要はないと考えたからです。」と答えているのです。文書の解釈に関して争いがあるときは、それが締結された際にどのような解釈が行われていたかを確かめる必要があります。そして、一方の当事者であった成瀬氏が概算要求は「大学の公的な意思表明」に含まれていたと証言しているのに、当時の当局側の当事者(第八委員会)に確認することもなく勝手に「含まれない」と解釈し、問題ないとする永野特別補佐、東大当局の姿勢は締結当時の解釈をねじ曲げなければ正当性が確保できないことを示しているのです。これらのことから東大当局が、八四合意書に違反したことは動かし難い事実なのです。
 この二つの合意はいずれも大学の内部的な意志決定手続きの要件を規定するものとして、重大な意義をもっています。これは東大当局と学生両者の合意によって締結され、両者を拘束するものなのです。つまりこれらの合意によって、駒場寮の存続に関わるような重大な決定を行う場合には、事前に学生・寮生に説明をし、合意に向けた誠実な協議を尽くすことが、大学内部の意思決定に関する手続的な要件として確定されたことになります。
 しかし、これらの要件を全く無視する形で91年10月臨時教授会において「廃寮」は決定されました。いかに学部当局といえど、明確に規定された合意事項を破棄し、意志決定における手続的要件を無視してその権利を行使することはできません。もし、駒場寮「廃寮」が教授会・評議会の議を経ず、いきなり学長によって決定されたとしたらそれは大学の意思決定における手続き的要件を欠くものとして無効なものとなります。そして、教授会・評議会と同様に明文化された駒場寮自治会との間の合意も、意思決定における手続き的要件であり、これに違反することは教授会や評議会の議決を得ないまま決定がなされた場合と同じく無効なものとなるのです。
 法的には、駒場寮自治会との間で合意なく「廃寮」等を決定しないという八四合意書などの合意は、一定の手続的要件が満たされない限り駒場寮に関する大学の権限を行使しないという一種の権利不行使の合意とみなすことができます。手続的要件に反する駒場寮の「廃寮」決定がなされた場合には、大学が廃寮決定にもとづいて学生に対する権限行使をする法的要件を欠くこととなるのです。

4.3 国・東大当局の主張とその問題性
4.3.1 国・東大当局の主張━「駒場寮の管理者たる学長が廃寮にしたのだから、廃寮決定は有効」
 民主的な学内手続きを経ない「廃寮」決定は無効であるとの寮自治会の主張に対し、国・東大当局は「駒場寮の『廃寮』決定とは、95年10月17日、東京大学教養学部教授会の決定及び東京大学評議会の議を経て、東京大学学長が駒場寮を96年4月1日以降は学生寮としての公用に供しないことを決定したものであり、国有財産法上の『用途廃止』の決定に当たる。『用途廃止』は駒場寮を管理する学長が事実上その使用を廃止すれば、効力を生じる(そもそも決定を要しない)。よって学長がその使用の廃止を決めれば、廃寮はなされ、それは有効である。被告らは駒場寮の管理権限が東京大学から駒場寮自治会に委譲されている以上、駒場寮の存続に関わる事項について東京大学の決定権は法的に制限されているとして『廃寮』決定が無効である旨主張するが、前記のとおり、駒場寮自治会が管理権限を有することはあり得ないのだから、駒場寮の「廃寮」に関する学長の権限が制限されることはない。東京大学は94年以前に入寮した学生には、その際入寮を許可したが、そもそも寮生の駒場寮への居住は駒場寮を学生寮としての用に供していたことによる反射的利益に過ぎず、通常の借地借家法などに見られるような法的保護の対象となるものではない。」と主張しています。

4.3.2 国・東大当局の主張の問題性
(1) 学長が決定したから「廃寮」
 「廃寮」決定の有効性という争点において国・東大当局が述べていることは、つまり学長が「廃寮」と決めたのだから「廃寮」なのだ、ということです。これは国有財産法において管理権限が与えられているものは学長(または執行補助者としての学部長)だけであり、その学長が権利を行使しただけだ、という論理です。それも決定が行われたのは91年10月臨時教授会ではなく、いわゆる「廃寮」告示━━96年度以降の駒場寮「廃寮」の告示のこと。数百人の寮生・学生の抗議によって学部長は告示文を読み上げることもできず、逃亡した━━が行われた95年10月17日となっているのです(何故95年10月を決定とせねばならなかったかは、第二部3.4(3)参照)。
 92年10月の三鷹宿舎第T期工事の着工、95年4月までに現三鷹宿舎の605室が完成しているにも関わらず、その後に「廃寮」決定はなされたと主張しているのです。それでは学部当局が当初から主張し続けてきた「三鷹建設と駒場寮『廃寮』はセット」という論理とは何だったのでしょうか。現在の三鷹が完成された後に駒場寮「廃寮」が「決定」されたのであれば、そのリンクは存在しないこととなります。
 さらに国・東大当局は、そもそも「廃寮」には「別に意志的行為を必要とせず、……その消滅についても、別に公用廃止行為を必要とせず、事実上、その使用を廃止することによって、公物たる性質を失うのである。」として意思決定における要件どころか、公的な決定すらいらないという姿勢を打ち出しているのです。これは95年の学長決定という学内では主張し得ないことを主張したのと同じく、学生自治はもちろん教授会自治すら否定する主張なのです。東大白書第二号によれば「評議会が最高意志決定機関であるのに対して、総長(学長)は、この会議を主宰するとともに、その決定を執行する執行機関である(P266)」とされています。しかし、学長に全ての管理権が付与されるという法解釈を強弁した結果として、結果的に学長の「決定」さえあれば良いという論述に至り、執行機関であった学長はいつの間にか唯一の決定機関になりかわっているのです。学生自治ばかりか教授会自治すら否定する主張を東大当局自身が行う。このような事態が96年6月教授会の「学部長への法的措置の一任」決議に端を発することを思い起こせば、大学自治の「自殺」行為という表現がいささかも誇張でないことがわかるかと思います。

(2) 管理権限委譲の「法律がない」から「廃寮」は有効
 意思決定要件を欠くという寮自治会の主張に対しては「駒場寮自治会が管理権限を有することはあり得ないのだから、駒場寮の「廃寮」に関する学長の権限が制限されることはない」と答えているのです。「廃寮」決定に関する東大当局の受ける制約の根拠として寮自治会は@合意書などによる意思決定要件の存在、A管理権限の存在を挙げています。特に「廃寮」決定の不当性の論拠として@を中心に意思決定要件に関しての論述が中心的になされました。しかしこれへの反論は「管理権限を有することがあり得ない」(管理権限の委譲が事実として存在し、法律上「あり得る」ことは3.2.1において論述しました。)から、ということのみであり、合意の存在や意思決定要件を欠いた「廃寮」決定が何故有効なのかの論述は全く存在しないのです。
 国・東大当局側の主張はすべて以下のような論理で貫徹されています。「国有財産法に規定がない」→「管理権限の委譲はあり得ない」→「いかなる学生の法的権利も大学が受ける制約も存在しない」。つまるところ、彼らが徹頭徹尾主張しているのは、「国有財産法に規定がない」ことだけなのです。そして寮自治会が主張する管理運営の実態・合意書による意思決定要件の存在・「廃寮」の不当な経緯・権利濫用などをただ「あり得ない」ので「失当」と繰り返すだけでまともに反論すらしないのです。現実の否定の上に主張を組み立てるというデタラメ極まりない論述がここではまかり通っています。
 これこそが「公正な第三者の判断を請う」として東大当局が踏み切った裁判における実態なのです。形式的な(それも誤った)解釈をオウム返しのように繰り返し、合意に基づいて問題解決を図ってきた大学自治の内実を法的解釈で「あり得ない」として改変する。そもそも大学自治について、意思決定の要件についてまともな議論すら行っていないのです。

(3) 寮生の居住権は反射的利益に過ぎない
 また、国・東大当局の主張によれば、寮生の居住権は学生の自治への参加権と同じく反射的利益に過ぎないとされ、寮生は通常の借地借家法では決して考えられない極めて弱い立場に押し込められています。つまり学長は在寮の権利をいついかなる時でも寮生から剥奪することができ、それは大家と下宿人のような契約関係とは異なり、寮生は何らの法的保護も享受できないとされているのです。こんなことを許してしまえば、駒場寮以外の東大の寮でも寮自治会に優越して学長が退寮を言い渡すことができるようになります。現に山形大学学寮では山大当局の入寮募集停止に抗して自主入寮募集を行った学寮生に対して今年3月寮生全員を退寮処分とするという無茶苦茶な決定が出されています。国・東大当局の主張を容認することは、このような居住権を盾に政治弾圧を迫るという事態が今後東大で、そして全国で起こっていくことにもなるのです。

4.4 東京地裁の「判断」とその問題性
4.4.1 東京地裁の「判断」
 廃寮決定に関しては、「前提事実」、国・東大当局の主張を追認し、「学長は、……平成八年三月三一日をもって駒場寮を廃止する旨の決定(本件廃寮決定)をし」たのであり、「本件廃寮決定の内容に不服を有する当事者は、右決定が学長の行政処分であると解されることからしても、本来、行政不服審査法、行政事件訴訟法に基づき右決定についての不服申立てをすべきであ」る、としています。この判決では、「廃寮」決定の有効性についてはこれ以上の論述も理由も一切述べられていません。

4.4.2 東京地裁の「判断」の問題性
(1) 「廃寮」決定の有効性を「判断」せず
 まず、「四 本件廃寮決定の効果」において、「廃寮」決定の有効性は全く論じられていないことを確認します。これはすでに、「三 被告駒場寮自治会への駒場寮の管理権限の委譲について」2において「駒場寮の管理に関する一定の慣行が存在するとしても、右慣行は、その内容に照らこしてみても、学長が有する行政財産(本件建物)の存廃についての決定権を制限するようなものではない」としているので、国・東大当局の主張と同様に法律上管理権限の委譲が「あり得ない」という主張に「廃寮」の「有効」性を収斂させているからともいえますし、またこの項が「廃寮決定の効果」(決定からもたらされる法的効果)であって、「『廃寮』決定の有効性」ではないことから、この判決では決定が有効か無効かをそもそも論じようとしていないともいえます。
 しかし「学生の意見を聴取しなかった」ことを認定しながらも、駒場寮問題の発端であり、その不当性・争点の最たるものである91年の「廃寮」の意思決定の問題については触れようとすらしない地裁の姿勢は司法の「判断」を下す機関として許されないものです。このように争点に対して、「判断」を回避している判決は決して有効のものとはなりえないのです(2.3.2.3も参照)。

(2) 「廃寮」決定は行政処分か
 さらにここでの地裁の判断は「『廃寮』決定は行政処分だから、不服申し立てをすべき」という、全く的はずれなものとなっています。もちろん駒場寮問題は教授会決定に端を発する学内問題であり、「用途廃止」すら学内でしか処理されていないことからも「廃寮」決定が行政処分であるという「判断」は全くの誤認なのです。
それとも、地裁のいうように、95年10月17日の「廃寮」告示から60日の出訴期間の間に寮生・学生が所管官庁である文部省に対して「不服申し立て」をすべきだったのでしょうか。もちろん学内の問題に対して、文部省の介入を招くようなことを行うことの愚は説明するまでもありませんし、話し合いでの解決を求めてきた寮自治会が東大当局を無視して、学生自治を認めない文部省に不服申し立てをすることは考えられないことです。そもそも「廃寮」決定が「行政処分」である、ということは国・東大当局すら主張していない論理であり、これを地裁が先取りすることは弁論主義に反するものでもあるのです。
 しかし、たとえ「廃寮」決定が学内的なものでなく、「行政処分」だっだとしても、行政不服審査法に基づき、処分に際して告知・弁解・防御等の機会が保障されなければならないとともに、寮自治会に対して不服申し立てについての「教示」が行われなければなりません。教示制度とはいつのまにか「行政処分」が行われ、それに対する「不服申し立て」の方法も解らないまま処分が行われることを防ぐために、当該官庁は国民に対して行政処分が行われたことや不服申し立ての方法などの情報を教示する義務がある、というものです。「廃寮」決定について「教示」が行われた事実はないのですから、もし「廃寮」決定が「行政処分」だったとしてもその手続きには重大な瑕疵があることとなります。地裁は執拗な、国財法→学長に唯一の権限→学長が「廃寮」を決定、という国・東大当局の論理を受け入れ、そこまで法律を形式的に解釈するのであればこの「廃寮」決定は「行政処分」にあたるだろうという判断を下したものと思われます。しかし、駒場寮問題は本来全くの学内問題であり、それを国・東大当局が実態を隠蔽して国財法において形式的に裁くよう主張したに過ぎません。しかも、本来純然たる学内問題であったため、当然東大当局も「廃寮」決定が「行政処分」とは規定しておらず(よって「教示」などの適正な手続きを当然踏んでいない。このことから国・東大当局は「行政処分」という主張を行わなかったものと思われる)、裁判の段になってはじめて「学長が決定したので有効」「法律に規定がないのであり得ない」という形式的解釈や「行政の法理」を国(法務省の訟務検事)に引きずられる形でこの問題に適用したに過ぎないのです。この学内問題を国財法で裁くという矛盾が、地裁の「廃寮」決定は「行政処分」という明らかに的はずれな判断を導いているのです。

4.5 「廃寮」決定は有効か
 「廃寮」決定の有効性を論じる際には、寮生、学生の意志をきちんと問い、反映させたか、それまでの確認書、合意書などに従って事前に話し合いが持たれているか、その結果合意に至ったか、などが問題となるでしょう。「廃寮」の決定は学部当局が一方的になし得るものではないからです。寮自治会は、91年10月に至るまで計画の存在を学生に隠蔽し続けたこと、「決定」の前に寮生と何ら話し合いを持たなかったこと、その後の代議員大会、総代会での決議、さらにストライキや学生投票の結果も無視して強行したこと、これらは東大確認書、八四合意書に明確に違反すること、などを挙げ決定の無効性を論証しました。しかしこれらの意思決定要件の論点、争点に対し、国・東大当局が提示し、また地裁が追認した論理は、学長が「廃寮」を決めたから「廃寮」だ、というまったくの形式的法律論、ただ95年に「廃寮」告示を行ったことを示すのみなのです。「学生の意見を事前に聴取しなかった」ことは地裁すら事実として認めざるを得なかったにもかかわらず、91年からの「廃寮」決定の際の非民主的手法については触れてさえいない。これが果たして「判断」「議論」といえるのでしょうか。
 合意を破ってよいのか、と問われたらそれは問題であると答えざるを得ない。東大当局が合意書破りをあえて議論の俎上にのせなかった理由はそこに明白な手続き的問題が内在されているからです。あえて駒場寮問題の本質に目をつぶり国財法に逃げなければならなかったのは、きちんと意思決定要件について議論すればそこに内在する問題が明らかになるからに他ならないのです。それは地裁の判断回避についても同様のことが言えるでしょう。そればかりか、東大当局はまたも国に引きずられて教授会自治すらほり崩す主張を行い、地裁は「廃寮」決定は「行政処分」というあまりに的はずれな認定を行ったのです。
 このように問題の本質に光を当てようとしないという国・東大当局の主張、地裁の判断回避自体が「廃寮」決定の違法性を端的に表しているのです。

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