@ 大学の自治や自律性を自ら売り渡す主張を行ったこと。
A 駒場寮問題の本質から議論をずらし、所有権・国財法のみに基づいた主張を行ったこと。
B 形式的法解釈に固執し、それに基づいて事実すら歪曲したこと。
C 強制執行による寮問題の「解消」のために以上のような主張を行ったこと。
@では駒場寮問題を「大学の内部的問題ではない」と主張して、学内問題への司法介入を積極的に誘導し(1.)、(学内と裁判所でのダブルスタンダードを用いながらも)国と一体となって学生自治・東大「確認書」を全否定し(2.)、「廃寮」決定は学長がしたとして教授会自治すら否定しています(4.)。また、大学の自律性についても自ら否定的主張を行い(2.)、政府・文部省(国)が大学の自律性を奪っていく昨今の動き(大学審答申、新大管法制定、独法化など)に対して積極的に荷担しているのです。これは駒場寮問題を裁判にまで持ち込んだ東大当局が、その帰結として導き出した最悪の結論と言えます。
Aの不当性は、「前提事実」でも認定された「廃寮」の手続き的問題(合意違反)、そして三鷹宿舎では到底代替し得ない駒場寮の意義、といった駒場寮問題の本質的部分を議論の俎上に載せることを回避したことです。そして寮問題を「国・大学当局と寮生個人の間の所有権に基づく具体的な権利義務に関する紛争」と規定し、この問題をその本質から全く乖離したものとして主張したのです()。さらに、寮自治会が主張した不当な「廃寮」決定、権利濫用への反論は全くなされていません。東大当局のこのような姿勢は、この裁判における審理を形式的なものに貶め、裁判所を寮生叩き出しのお墨付きである「判決」、そしてそれに伴う(権力の暴力装置=機動隊の導入を可能とする)「強制執行」を唯々諾々と吐き出す自動機械として利用しようとするものです。同時に、駒場寮問題の本質的部分の議論において、自らが何の正当性も主張し得ないことを露呈させた、ともいえます。
Aにおいて問題を本質からずらし、矮小化した国・東大当局の主張の内容がBにあたります。ここでは、寮自治会による長年の自主管理・運営(管理権限の委譲)は「あり得ない」とされ、「廃寮」決定は95年に学長がしたことになっており、権利濫用は「管理権限の委譲はあり得ないので、存在しない」とされています。これらは「評価」の問題ではなく、事実の問題であるということが重要です。寮自治会による管理・運営、91年の「廃寮」決定、96年4月以降の各種実力行使はまぎれもない事実です。しかし、国・東大当局は不当な「廃寮」決定、合意書・確認書破り、などを正当化するために事実すら改変してしまったのです。また、国・東大当局の論理は実のところ一つしかありません。それは「学生に権限を委譲することは法律が存在しないのであり得ない」ということだけです。書面で彼らは、ただひたすらこの論理をオウム返しのように繰り返し、「学生には何の法的権利もない(あり得ない)」のだからさっさと出ていけと叫ぶばかりです。学生がいかに大学当局と合意を結ぼうと交渉を行おうと、最後には「法的拘束力はない」という言葉でもって全てが反故にされてしまうのであれば、学生自治団体と大学当局との合意や交渉、信頼関係は全く拠り所のないものとなってしまうのです。
そして、@〜BはCに奉仕すべく行われました。いかにその論理が審理を本質から乖離させようと、主張が事実を歪曲しようと、寮生を叩き出してしまえば我々の勝ちだと言わんばかりの姿勢は司法制度自体を愚弄するものです。そればかりか、大学自治すら危機にさらす事態をもたらしたことの責任を東大当局はどのようにとるのでしょうか。これは東大全学生・職員・教官への背信行為であり、全国の大学関係者、そして「学問の自由」を享受すべき国民への背信行為といえるのです。
6.2 東京地裁
先に述べたように、東京地裁は国・東大当局の主張をほとんど追認しました。よって、かなりの部分その不当性は重なっています。事実認定に関しては評価すべき部分がいくつか見られましたが、「争点に対する判断」では評価すべき点は存在せず、不当性ばかりが目立つものでした。それを簡単にまとめます。
@ 司法の大学自治への介入を正当化したこと。
A 論拠を示すことなく、寮自治・自主管理の法的無効性を主張したこと。
B 駒場寮問題の本質の議論を回避し、「判断」を行わなかったこと。
C 事実を歪曲・選別したこと。
@では、「大学の自治の内容について判断できないとするいわれはない」として司法が大学自治に介入することを積極的に正当化しています。駒場寮問題は、法律に記載されていなくとも実際に大学内において拘束力を持ってきた学生自治の問題です。だからこそ、部分社会の自立的法規範の問題として裁判所が介入すべきではなかったのです。しかし、東京地裁は開き直って介入を正当化し、しかも(自立的法規範の証左である)「法律に記載がない」ことを根拠に学生自治の無効を宣言したのです。
Aで判決は、寮自治会による入退寮選考をはじめとする自主管理・運営を「一定の事務をゆだねる」「事実上の措置にとどまる」と規定し、「管理権限が委譲されたものとは認めることができない」としています。しかし、これがなぜ「一定の事務」「事実上の措置」にとどまるものなのかは、その根拠が全く明らかにされていません。事実と判断との明らかな乖離があるにも関わらず、国・東大当局を追認し、寮自治・自主管理を矮小化して、その法的無効性を主張したのです。
Bは、国・東大当局と同様に本質的な部分の審理を回避したことです。東京地裁は駒場寮問題を「廃寮となった本件建物を被告らがなお寄宿寮として使用することができるかという私法上の当事者間の具体的権利義務の存否に関わる紛争」と規定し、明らかに問題の本質を(確信犯的に)誤認しています。そして、寮自治会からは不当な「廃寮」決定について、また権利濫用について再三主張がなされ、さらに証拠調べにおいても相当突っ込んだ証人尋問がなされていたにもかかわらず、これらの点を「判断」することすら拒否したのです。「争点に対する判断」の部分で、91年の「廃寮」決定は(まるで存在しなかったかのように)触れられてすらいません。このことは一審判決の「判断」の無効性、その審理のいい加減さを端的に示すものなのです。
Cの事実の歪曲・選別は、寮生の居住を「共同占有」と認定したこと、「廃寮」決定を95年に行われた行政処分としたこと、学生の反対の声を権利濫用の判断において無視したこと、などが挙げられます。これは、国・東大当局の主張した「学長への法的権限の集中」「学生に管理権限を委譲することはあり得ない」という論理を追認した結果として、東京地裁もこのような事実の歪曲や選別を行わざるを得なくなったのです。
[←第三部-5/第四部→]