第1部 駒場寮の存在意義

1 厚生施設としての駒場寮

1-1 安く居住することを保障する駒場寮

 憲法に定められた「教育の機会均等」を実現するために厚生施設として学寮は必要不可欠です。駒場寮は水光熱費・寮自治会費等込みで月5000円(現在は発電機運転のため、6500円となっています。このような無駄な出費せざるを得ない状況を作っている学部当局には怒りを覚えるばかりです。)という安価にて住むことが出来、また学内にあるため、通学に要する時間・定期代は不要です。厚生施設としての駒場寮のこれらの利点は、三鷹宿舎では代替出来ないものです。
 現代の受験競争の中で、入試自体が既に経済的選別装置であることは紛れもない事実で、学寮があるからといって経済的困窮者が希望通り大学に進学出来る訳ではありません。しかしだからといって学寮がなくてもいいということではなく、厚生施設としての学寮を潰すことは経済的困窮者にとって困難な大学進学という事態をさらに固定化することになります。七十年代以降、授業料が急上昇する中で、学寮潰しはそのような「教育の機会均等」を有名無実化する状況に拍車をかけるだけです。
 経済的側面だけを見れば奨学金制度を充実させればよいという意見もありますが、実際には奨学金制度の充実がなされておらず、かつその実現の見通しもないのが現状であり、不況が続き、リストラに名を借りた解雇が行われている社会状況を見れば、入学前と後とを問わず、学生が学生を続けることを可能にする厚生施設を国が用意するのは当然のことです。

1-2 「受益者負担主義」に反対

 六十年代の高度経済成長期を通じて「受益者負担主義」という考え方が出てきました。教育を受ければその個人が見返りを得るのだから、受益者であり、相応の負担をせよ、という訳です。その、「受益者負担主義」に基づいて政府文部省は学寮政策の転換を図ってきます。このような政府文部省の方針に抗して、駒場寮自治会は厚生施設としての駒場寮を守り続け、学部当局も一定程度それを認めてきました。駒場寮の水光熱費の半分が学部当局負担であるのもそのためです。
 ところが、三鷹宿舎(注一)ではこの「受益者負担主義」が貫徹され、個室にメーターを設置して個人使用量を明確化し、かつプリペイドカードでの支払いを義務付けるという徹底ぶりです。経済的側面での三鷹宿舎との違いは、単に金額的な問題にとどまらず、背景としての「受益者負担主義」にこそあります。「教育」というものは憲法に謳われるように、それは受けたい者に与えられるべきもので、「教育」は決して「商品」ではありません。

2 自主管理空間としての駒場寮

2-1 自主管理空間を守る

 学生は大学に管理されるべき対象なのでしょうか。・・・何も学内に限らず、個々の人間の主体性を最大限に尊重することが民主主義の基本であり、学部当局と学生との立場の相違は当然ありますが、しかしそれは管理する/されるの関係ではない筈です。管理ー被管理の関係は、必ずその背後に権力(強制力)関係を伴います。「学生としてあるべき姿」をお仕着せされる場合、それを強要するだけの権力関係が存在するのです。我々は他者によって一方的に在り方を決められることを拒否します。このような管理ー被管理の関係を打ち破るには、自ら治めることが必要であり、自主管理は管理されることから脱するために必要なのです。自主管理は、学部当局の管理強化を実質的に撥ね除け、それに抗する足場となるのです。
 自主管理の積極的側面も論じねばなりません。自らが自らを規定するということが自主性を守る上で不可欠であるのは言うまでもありません。「誰だか分からない自分/誰でもいい自分/誰でもない自分」ではなく、「取り替えの効かない自分」でなければならないのです。学生は大学の「お客さん」ではありません。そのような意識を喚起する装置としての自主管理は、流行や時流に流されやすく、社会的関係性の中に自らを位置付けることが難しくなっている現代社会に於いてこそ求められるものだと考えます。
 「取り替えの効かない自分」は、お仕着せのプログラムをこなせば得られるものではなく、自主自治活動を通じて主体的に何かに取り組むことでしか獲得されません。このような姿勢は、何も学問のために必要というのではなく、個々の人間が立場性を認識するために必要なのです。駒場寮自治会の有する入退寮選考権は、寮自治会の構成員を自らが選ぶという自主管理の実践であり、また財政管理権はその金銭的な裏打ちです。駒場寮のこのような自主管理の意義は、学部当局による管理が徹底化された三鷹宿舎では代替出来ません。
 自主管理といっても、ママゴト自治(社会に出た時に必要な管理や交渉等のノウハウを身に付けるための練習的自治)やトリカゴ自治(社会的関係性の中で自らの立場性を捉え返すのではなく、特権性にあぐらをかいた閉鎖的自治)に堕してはならないでしょう。駒場寮は学内外との日常的交流の中で、ママゴト・トリカゴにはならないことを意識させられ、目指しています。

2-2 サークルスペースとしての駒場寮

 駒場寮には今でも多くのサークルの部室が存在します。完全に部室に特化したケースから生活空間と部室が共存したケース、さらには主に寮生有志が寮内規模で作ったサークル部屋のケースなど多種多様です。生活とサークル活動の比重は部屋ごとに異なりますが、どのケースでも生活とサークル活動の相互作用による駒場寮ならではの自主自治活動の質があるのです。それは、一部屋24畳という広いスペースで共同生活するという駒場寮だからこそ可能な条件によって支えられたものです。学部当局は「居住機能は三鷹へ、サークルスペース機能はキャンパスプラザ(注二)へ」と主張しますが、生活とサークル活動の混在、サークル的生活こそが駒場寮に於ける自主自治活動の質を規定していることを見落とすことは出来ません。
 特に部室として特化した部屋にいたサークルは、1996年4月の学部当局による「廃寮」宣言以降、寮外へ移動したものも少なくありませんが、依然として多くのサークルが寮内に部室を構えています。さらに「廃寮」宣言以降に新規に部室を構えたサークルは「廃寮」宣言前のサークル総数を上回ります。駒場寮がサークルスペースとして必要とされている背景には学内に於ける絶対的サークルスペース不足があります。駒場寮「廃寮」は、ただでさえ不足するサークルスペースを、さらに減らすことになるだけです。ところで誤解のないように付言しますが、サークルスペースとしての駒場寮の意義とは、サークルスペースが不足しているから駒場寮がスペースを提供するという消極的なものではありません。駒場寮に於ける自主自治活動の質を高めるための必然的状況であると言えます。そしてそれは、24時間自由に使える駒場寮で活動したいというサークルの希望でもあります。

2-3 学生自治潰しの「キャンパス整備計画」に反対

 「廃寮」が前提とされる「キャンパス整備計画」では、学生会館について、廃館・(例え移転されてたとしても)面積縮小が、危惧されています。今のところ学部当局は「学生会館の建て替えについて面積拡大する用意がある」と言っていますが、これは東大全体の合意とはなっていません。駒場寮の経緯を見れば明らかな通り、これは何の保障もしていないことと同じでしょう。駒場寮が潰されてしまえば、学生会館建て替え問題、さらには旧物理倉庫等の学生の自主自治活動スペースが潰されてしまいます。このような「キャンパス整備計画」を撤回させるためのいわば防波堤となっているのが駒場寮なのです。
 「キャンパス整備計画」(注三)で建設される施設には文部省の定める管理運用規則が適用されます。そこに学生が自主管理する余地はありません。施錠から貼り紙の許可に至るまで、全て学部当局が行うことになります。このように学生の自主性を奪う「キャンパス整備計画」には駒場寮自治会は断固として反対します。
 さらにおもしろいことを一つ述べておきましょう。・・・これまで学部当局は「廃寮」後の跡地計画として「CCCL(注四)」計画というものを前面に押し出して進めてきていましたが、その内容のあまりの杜撰さのために、ついに1998年12月、学部当局自らその計画を取り下げざるを得なくなったのです。そして、やはり「廃寮」を前提とした新しい「キャンパス整備計画」を発表しました。しかし、この計画についてもそれまでの「CCCL」計画とその内容のデタラメさにおいては変わっていません。このような、学生の意見を一貫して無視し続けて、あれこれと杜撰な計画を一方的に押し付け続ける学部当局の姿勢は決して許すことはできません。

 以上見てきた通り、駒場寮には様々な存在意義があります。そしてそれらは三鷹宿舎や「キャンパス整備計画」に予定される諸施設では代替出来ないものであることがお分かり頂けると思います。

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