1992年2月25日、駒場寮と学部当局との交渉が行われた。ここでは主に寮費の問題について議論された。しかし学部当局は「新しい宿舎に関しては、学生自治会や駒場寮、三鷹寮を参考に話を聞いても、直接の話し合いの相手とする気はない。」という態度を取り、これに対して交渉参加者一同から原田教養学部長に対して「抗議声明」が出された。当時の学生の決意は「・・・あらためて、『三鷹国際学生宿舎』構想の撤回または、大幅修正を要求する。今回の交渉において、これまでの学部側の交渉での発言、説明、文責などの無責任さがますます明らかになった。・・・今後、真摯な態度で寮生・学生との折衝にあたることを強く要求する。あいまいな根拠と、不確実な見通しでおしすすめようとしている、駒場寮廃寮計画をただちに撤回せよ。教養学部当局は、政府・文部省の学寮放棄政策に対して、断固抗議を行え。駒場寮生は、・・・断固たたかう決意を表明する。(武陵桃源会(注三)討議資料集より)」からも明らかである。新歓期に学生自治会は『自治会便覧』で、「教育の機会均等のために三鷹国際学生宿舎は真の解決にはならない」と主張、また駒場寮委員会も「学生にとって負担増となる。食堂が廃止される。学生による入退寮選考がなくなる」として「計画に反対する」宣伝を展開した。
しかし5月の駒場寮総代会、6月の学生自治会代議員大会は怪しい雲行きを呈していた。ここにいたり、「三鷹推進、一方的な廃寮反対」路線が確定する。しかしこれは裏を返せば廃寮もあり得るという、学部当局の言い掛かりの口実になってしまった(とは言え、この時点では既に三鷹計画が予算化されており、学生の意見が計画に影響を与えた訳ではない。学部当局はこれらの決議を三鷹推進の根拠に挙げるが、それは本当の事情に全く反している。利用出来るものは利用するという卑劣な態度が浮き彫りになるだけである)。
7月に学友会の説明会開催要求に応えて学部当局主催の駒場寮「跡地計画」の「公開説明会」が行われた。ここで明らかになったのはそれまで学部当局が主張していた「キャンパスの有効利用」など何一つ計画されておらず、「150億円集めたらこんなものが作れる」という、まさに机上の空論が練られているだけだということであった。しかもその予算のうち60億円が募金で賄われるということも併せて明らかになった。折しもバブル崩壊の直後でこれは現在でも目標の一%も集まっていない。
10月8日、学生の反対を無視する形で「三鷹国際学生宿舎」着工が強行された。
同じく10月、方針のニュアンスが変わった5〜6月の路線の延長線上で、駒場寮内では三鷹計画と駒場寮「廃寮」の「リンク」容認の意見が出され始める。同月の第128期寮委員長選挙では「条件が整えば廃寮賛成」まで掲げた候補が信任されるものの不信任票は前代未聞の多さであった。三鷹宿舎着工を目の当たりにして、寮内にも少なからぬ動揺が走ったことを物語っている。
しかし一方で11月に寮委員会内に「廃寮問題に関する実行委員会」が発足し、年末年始に同実行委員会が寮内署名を呼びかけ、寮生の三分の二の賛同を得た。その趣旨は
[第4章→]