第1章 「三鷹国際学生宿舎」計画が急浮上

 「三鷹国際学生宿舎」計画のそもそもの出発点は、1988年に大蔵省関東財務局が三鷹寮の敷地を「不効率利用」国有地に指定したことである。これによって、放置すれば敷地没収になる可能性が出てきた。これに対処するため東大当局は1990年3月に三鷹寮を立て替える計画として「国際学生寄宿舎」建設計画を作成し文部省に提出したが、この概算要求は通らなかった(計画の存在も内容も学内には明らかにされなかった)。翌年3月には改めて「三鷹国際学生宿舎」計画を提出し、文部省は1991年8月に予算化を認める旨を東大当局に打診してくる。しかしその「条件」(注一)は、三鷹寮の立て替え計画にとどまらず、三鷹寮と駒場寮の現在寮生数と留学生枠を足して「三鷹国際学生宿舎」とするという内容だった。こうして三鷹寮の立て替え問題は一気に駒場寮廃寮問題にまで発展した。しかし事前に公表したらこの計画は挫折するとみた学部当局は、学生はおろか大半の教授にも知らせずに関係省庁・部局との折衝を秘密裏に開始した。そして1991年10月9日、突如開催された「臨時教授会」に於いて三鷹構想と三鷹国際学生宿舎特別委員会(三鷹特別委)(注二)の設置が電撃的に決定されたのである。学生がこの噂を聞いて学部当局に公開質問状を提出し、1991年10月17日に教養学部名で『二一世紀の国際宿舎をめざして』と題する文書が発表されるに及び、初めてその内容が全学に明らかになったのである。しかし、それは既に決定済みとして駒場寮に突き付けられたものでしかなかった。
 このような非民主的な決定プロセスを経て出されたのが駒場寮「廃寮」計画である。二度目の概算要求を頭出ししていた1991年7月の学部交渉の時点でも、学部当局は「寮の立て替えの必要性は認めるが計画は具体化していない」としてあたかも計画自体が存在しないかのように回答したり、予算化の可能性が浮上してから「教授会決定」迄に二ヶ月もあったのに寮生・学生に「廃寮」計画について一度も打診しなかったりと、意図的に当事者である寮生・学生に隠して進められ、「決定」された不当な計画が駒場寮「廃寮」計画に他ならないのである。

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