第三部-2 争点に関する三者の主張とその分析

2 駒場寮自治会の管理権限の存在について
2.1 寮自治会の主張
 駒場寮自治会の管理権限の存在を寮自治会が主張するのは、地裁のいうように「廃寮」後も駒場寮を占有し続けたいなどという目的のためではもちろんありません。国有財産法上の管理権、占有権限の問題は、駒場寮問題の本質的な争点ではないことは1で触れました。管理権限の存在、つまり自主管理の存在は、実際の管理運営を行う寮自治会が設備の維持管理などを行う学部当局と寮に関する問題について対等な立場にあったことの根拠であり、学部当局が「廃寮」を初めとした寮に関する意思決定を寮自治会との合意なく独断で決めることができないことの論拠でもあるのです。ですから、ここでいう管理権限の分属は寮生が寮を占有し続ける根拠というよりも、意思決定要件の論拠というべきものなのです。
 駒場寮自治会は戦前から完全自治寮であり、新制となった戦後も構成員を自ら決定する入退寮選考権から財政権や寮全体の運営、ボイラーマンの雇用まで寮内の基本的な管理権を一貫して持ち続けています。実質的な管理を寮自治会がになうこの状態は法的には「管理権限の分属」といわれ、この管理権限の分属は学部当局、寮自治会両者の合意と度重なる確認によって、大学内の内部的規範として成り立っていました。明文化までなされていた、この管理権限を一方的に大学が奪うことは許されません。また、たとえ学部当局が入寮を許可しないと主張したとしても(そもそも入寮許可はこれまでも学部当局が許可するものではなかったのですから)、寮自治会の正規の入寮決定を経ている者は寮自治会の権限に由来する占有権限を得ることとなるのです。

2.1.1 合意にもとづく管理権限の移譲
 駒場寮の寮生による管理は、駒場寮の開寮当初からの歴史の中で東大当局との合意に基づいて行われてきました。そして1.1.3でも述べたように、駒場寮は過去多くの管理運営に関する問題が生じ、解決されてきました。そしてその度ごとに寮生の管理運営が確認されてきたのです。東大当局も認めていた寮自治会への管理権限の委譲について、ここでは簡単に例証します。
 まず旧制一高時代の寮自治は、1890年に一高の校長から寮生の自治に寮の管理運営を委任することが提案され、これを寮生が自治的に受け入れることを決議したことに始まります。そして1934年に一高が弥生から駒場に移り駒場寮が建設された後もこの完全自治は引き継がれました。このように寮自治は慣行としてではなく、学校側と寮生側の明確な合意にもとづいて開始されたものだったのです。
 戦後の学制改革を経て、駒場寮は旧制一高から東京大学教養学部の学寮となりましたが、寮生の管理運営権はそのまま引き継がれました。全寮制ではなくなり、入寮選考が開始されましたが、当初から選考は寮自治会が行っていました。戦後、1960年の安保闘争を契機として文部省は学生寮の自治への敵視政策を取り、1964年には「○管規」とよばれる学寮の管理運営規則の押しつけ及び、寮生に水光熱費を負担させるという負担区分の通達という形でそれが具体化するに至りました。これを受けて、駒場寮でも東大当局が入寮許可証を学部長が直接寮生個人に発行するという形態に改めることを提案しますが、これは寮自治会の入退寮選考権を弱めるものであると寮生が強く反対し、1966年には寮生による入退寮選考権を今後もまもることが東大当局と合意されました。
 1960年代末に起こった「大学紛争」、そして東大で闘われた東大闘争は、大学自治の担い手としての学生の固有の権利が要求され、東大当局もそれを認めた地点に大きな意義を見いだすことができます。その明示されたものとして東大では東大「確認書」が存在しますが、1969年3月1日、この東大「確認書」を受けて駒場寮自治会と教養学部長の間でも
「一 学寮が厚生施設としての役割を果して来たことを認め、その役割を発展させる立場に立って寮生の経済的負担を軽減するよう努力する。
 一 寮問題の重要性を認識し、寮生の要求の実現のため真剣に努力する。
 一 教養学部長は、駒場寮自治会を学生自治団体として認め、駒場寮自治会から要求があった場合には、誠意をもって、交渉に応ずる。」
という内容の「確認書」が締結されました。また、1969年6月28日には、東京大学の学寮の自治会の連合体である東大寮連と大学の学寮委員会との間で「入寮選考は寮生が行う」こと、「大学側は寮生による入寮選考委員の決定と入寮選考の結果については干渉しないこと」および「東大当局は寮生の正当な自治活動に対する規制ならびに処分は行わない」という内容の「確認書」が締結されています。
 そして1984年には、負担区分の問題が持ち上がります。この問題の発端は、当時の総長が寮生と秘密裏に会計検査院と駒場寮の水光熱費の負担区分の「(文部省の方針である寮生負担への)改善」を約束したことに始まります。結局この問題は、一年間にわたる交渉の末、八四合意書の締結を持って解決をみます。八四合意書では判決の「前提事実」でも認定された(第二部3.1参照)寮に関わる事項に関しては事前に寮生と話し合う義務を定めた第三項や、「第八委員会は従来からの大学自治の原則を今後も基本方針として堅持し、駒場寮における寮自治の慣行を尊重する。」ことが確認された第一項などが存在し、寮自治会の管理権限の再確認や意思決定に際する手続き的制約が東大当局との合意にもとづいて定められたものとして大きな意義を持っています。
 このように、駒場寮の管理運営については過去何度も東大当局と寮自治会が合意書、確認書を取り交わし、寮自治会が管理運営を行うことを確認してきました。これらは東大当局も管理権限の委譲を認めてきた事実を示すものといえます。

2.1.2 寮自治会の管理権限の存在
 2.1.1でみてきたとおり、寮自治会の管理権限は東大当局も認めるものとして繰り返し確認されてきました。そして駒場寮では実際の寮の管理運営もほぼ完全に寮生の手による自主管理によって行われてきたのです。(寮運営のより詳しい実態は『駒場寮の意義についての我々の見解:駒場寮委員会発行』を参照してください)

(1) 入退寮手続き
 駒場寮での入退寮はまったく東大当局が干渉しない形で行われてきました。入寮願書は寮委員会に直接提出され、入寮面接・選考は寮委員会の手で行われ、その決定も寮委員会名でなされ、寮生証・在寮証明書は寮委員長名で発行されてきました。寮委員会からは学部に対して、毎月初めに在寮生の数と入退寮者の指名を記した異動報告のみが行われていました(現在は東大当局が入寮を認めず、また寮生への個人攻撃を防ぐため異動報告は行われていません)。また、強制的な退寮処分も寮委員会・懲罰委員会が行い東大当局は一切関与していません。

(2) 財政権の保持
 水光熱費、寮自治会費を含む経常費(現在5000+1500円)は寮委員会が徴収しており、その内、寮委員会は寮自治会費を様々な経費に充てています。(かつては水光熱費は一括して、東大当局に実費の半額を寮委員会が支払っていたが、現在は発電機の燃料代などに寮委員会自らが充てている)この冊子も、寮自治会費で作られています。

(3) 炊フ、寮フの雇用
 寮食堂が生協委託となる1981年までは寮食堂の職員は長年寮自治会が雇用し、食堂全体を寮委員会食事部がこれを経営していました。食事部の業務は献立の検討から、会計管理などにまで及び、職員への給与の支払いや春闘の賃上げ交渉まで寮委員会が行っていました。
 また、寮務室で電話番、荷物の仕分けを行う寮フさんも84年までは寮自治会が雇用しており、負担区分問題の際に寮生の負担を減らすために学部雇用になったものの、その後も人事は寮自治会との協議のもとに行われていました。

(4) 部屋替えなどの部屋等の管理(寮委員会管理部)
 駒場寮では年二回の同室願いや入室願いによって、部屋への寮生の登録状況を把握しています。これ以外の部屋移動に関しては、寮委員会の許可のもと行われており寮生にどの部屋の使用を許すかは寮生自ら決定することになっています。

(5) 施設の維持管理(寮委員会施設部)
 施設の修理などは学部当局が行っていましたが(96年4月以前は)、細かな照明設備などの維持管理は寮委員会が行っていました。特に、東大当局はガラスの修理もなかなか行わないなど補修のサボタージュをたびたび行ったので、実質的に寮委員会が建物全体の維持管理を責任持って行ってきました。

(6) 寮への立ち入りに関する取り決め
 駒場寮に施設の点検、補修などで学部職員(教員も)が立ち入るときは必ず事前に寮委員会に連絡をすることが取り決めとして定められており、勝手に職員が立ち入り管理を行うことは禁じられていました。

(7) 仮宿の許可、施設の貸し出し
 長年駒場寮には仮宿制度が存在し、東大生や他大の学生、留学生、受験生など多くの学生が宿泊してきました(当然一ヶ月に泊まれる日数などの制限あり)。この仮宿泊許可も寮委員会が許可していました。また、会議室や南ホールも長年寮委員会からサークルなどに貸し出されてきました。

 このように寮自治会は寮生自らの手でほぼ完全な自主管理を行っており、━━だからこそ「廃寮」後、東大当局が寮に関する業務を完全停止した後も寮生の手のみで正常な管理運営が続けられているのです━━これは管理権限が寮自治会に存在することを実際に裏付ける事実となっています。

2.1.3 駒場寮自治会の管理権限の法的正当性
 国・東大当局は国有財産法に駒場寮自治会に権限を委譲する旨の規定がないことのみを根拠に管理権限の委譲があり得ないと主張しています。しかし、これは誤った主張であり、寮自治会への管理権限の委譲は国財法をはじめとした法律にも合致したものなのです。

(1) 大学の自主的決定権に基づく権限委譲
 1.1.1(1)でも述べているとおり、大学は「学問の自由」を保障するための自律性、自主的決定権を与えられています。「大学は、学生の教育と学術の研究を目的とする公共的な施設であり、法律に格別の規定がない場合でも、その設置日的を達成するために必要な事項を学則等により一方的に制定し、これによって在学する学生を規律する包括的権能を有」すると地裁判決も触れているように、法律に規定がなくとも、学内で自主的に管理運営を決定できることは法的にも認められているのです。
 駒場寮自治会への管理権限の委譲もこれに該当し、学内で合意によって管理権限を寮自治会に委ねると決定したことは、法的にも根拠づけられるのです。

(2) 駒場寮自治会への権限移譲は駒場寮の設置目的に適合する
 学生寮は、単なる生活空間、安下宿ではなく、教育の機会均等を保障するための福利厚生施設であり、かつ、学問あるいは主権者としての人間形成にとっても不可欠な場所です。これは共同生活に立脚する寮自治によって、民主主義と自主管理を実践的に学ぶ中で寮生が成長していくことができるからです。また、学生寮の管理運営を学生の自治に委ねることは、学生自身がもっとも学生寮について利害関係を有するという点からも、また、自主的な管理によって人間形成が図られるという点でも、学生寮の設置目的にもっとも沿う管理形態といえるのです。
 駒場寮自治会に管理権限を移譲することは、最も密接な利害関係を有する寮生を駒場寮に関する大学の意思決定過程に参加させるということです。このことは、大学の管理運営が恣意的に行われることを防止するための保障となり、大学の管理運営を民主化するという意義も持っているのです。
 このように、駒場寮の管理に関する事項は東大当局の専権事項ではなく、合意にもとづいて管理権限が大学から駒場寮自治会に移譲され両者に権限が分属することは、大学自治や大学の学生寮の設置目的に適合するのです。したがって、大学が自主的に管理権限を駒場寮自治会に移譲することは、大学自治にもとづく行為として法的に全く問題のないものなのです。

(3) 管理権限の移譲は国有財産法に反しない
 国・東大当局は、「行政財産は、これを貸し付け、交換し、売り払い、譲与し、若しくは出資の目的とし、又はこれに私権を設定することはできない。」という国有財産法一八条一項をひいて、寮自治会は「占有権限を有することはあり得ない」と主張します。しかし、この規定が東大当局が駒場寮自治会への権限委譲を禁止しているということはできません。
 まず、ここでいわれている「私権の設定」に寮自治会への権限委譲は該当しません。「私権の設定」を禁じる趣旨は、行政財産が本来の目的のために使用されることを確保するためであり、公共の財産について特定の私人がその使用によって私的な利益を追求することを防ぐためです。大学から駒場寮自治会への管理権限の移譲は、大学と大学自治の構成員である学生の自治団体との間の合意にもとづくものであり、国有財産法のいう外部の第三者たる私人に対する「私権の設定」とは明らかに異なっています。すなわち、駒場寮自治会の管理権限は、学生寮という行政財産の適正な管理運営を行うために必要不可欠なものとして定められたものであって、私的利益を追求するためのものではなく、公共性を有するものなのです。とくに、駒場寮の管理運営についてもっとも密接な利害関係を有する駒場寮自治会に権限を移譲することは、大学が専権的に管理権限を行使することに比べて、本来の設置目的に沿ったより適正な管理運営を実現する保障となりうるものでもあるのです。

(4) 事実たる慣習にもとづく駒場寮自治会の占有権限の存在
 寮自治会側の法的な主張の一つとして、事実たる慣習にもとづく法的根拠が挙げられます。3.2.1.1及び3.2.1.2で述べたように駒場寮の管理については、駒場寮の開設以来長年にわたって入寮者の選考、部屋割り、退寮処分など駒場寮の管理の中心的部分は駒場寮自治会が自主的に行ってきたという事実が存在し、これらに関しては寮自治会と東京大学との間で再三にわたってこれを前提とした書面が作成されるなど、寮自治会の管理権限の存在を認めることが共通の規律として認められてきました。こうした事実から、東京大学において、駒場寮の管理については、駒場寮自治会が独自の管理権限を有するという慣習が存在したことは明らかです。また、判決の「前提事実」においても、「(三) 駒場寮における寄宿寮の管理、運営上の慣行」として、その存在を認定しています。
 管理権限の委譲が国有財産法にたとえ抵触する部分があるとしても、法例第二条の「公ノ秩序又ハ善良ノ風俗ニ反セサル慣習ハ法令ノ規定ニ依リテ認メタルモノ及ヒ法令ニ規定ナキ事項ニ関スルモノニ限リ法律ト同一ノ効力ヲ有ス」という規定及び、民法第九二条の「法令中ノ公ノ秩序ニ関セサル規定ニ異ナリタル慣習アル場合ニ於テ法律行為ノ当事者カ之ニ依ル意思ヲ有セルモノト認ムヘキトキハ其慣習ニ従フ」によって、寮自治会は事実たる慣習に基づき管理権限を有するのです。
 事実たる慣習が抵触する法律に優越して法規範としての効力を認められる要件としては、先例としての東京中央郵便局のいわゆる「慣行休息権事件」において、東京高裁判決は@慣行にかかる事実が長期間反復継続して行われていること、A当事者が明示的にこれによることを排斥していないこと、B権限を有する者が慣行を規範として認める意思を有していたこと、という三点をあげています。寮自治会による駒場寮の管理運営についての慣習に関しては@駒場寮自治会に管理権限を認める取り扱いが長期間にわたって反復継続して行われており、A東京大学も駒場寮自治会の管理権限を否定するような言動は全くとっておらず、Bかえって、法令上管理権限を有する東大当局は、文書等によって駒場寮自治会の管理権限を認める態度をとっていたことが認められるのです。このように寮自治会への権限委譲はこれらの要件をすべて満たすものなのです。

2.2 国・東大当局の主張━「学生は営造物の利用者に過ぎず、大学自治の主体ではない」
2.2.1 国・東大当局の主張
 寮生の占有権限に関する国・学部当局の主張は、「国有財産法は『いっさいの私権を設定することができない』としているので、廃寮後は被告らに占有権原はない。駒場寮について駒場寮自治会に対してその管理を委任する旨規定した法律はないから、駒場寮自治会が管理権限を有することはあり得ない。」というものです。
 寮自治会は「あり得ない」という国・東大当局側の主張に対し、自治寮の歴史、寮自治に関する大学と寮自治会との合意、寮自治会による管理の実際などの事実に関して、認めるのか否かの釈明を求めました。この求釈明への回答は「大学自治を根拠に本件建物の管理権限の委譲を受けた旨の被告らの主張がそれ自体失当であるので、右事項は、被告らの本件建物に対する占有権原に関わるものではないから、認否の要はない」として寮自治会による自主管理が事実であるかどうかの認否も拒否したのです。
 さらに、大学自治との関わりについては東大ポポロ事件最高裁判決を引いた上で、「被告らは大学の自治や学生の自治を根拠として管理権を委譲できると主張するが、しかし、大学の自治の主体は、教授その他の研究者の組織であり、学生は営造物の利用者に過ぎないのであって、学生が大学の自治の主体であり、組織体としての大学の運営に対して発言権・参加権を有するということはできない。よって、学生自治を根拠に管理権限が委譲できるという被告らの主張も失当である。」と主張しています。
 これは明らかに東大「確認書」に反した主張であるため、寮自治会はこの主張が大学の自治に関する東京大学の考え方を示したものであるのかという釈明を求めました。この求釈明への回答は「被告駒場寮自治会が大学の自治を根拠に本件建物の管理権限を有する旨の被告らの主張が失当であることは、原告準備書面において詳細に主張したとおりであり、釈明の要はない。」とした上で「念のため述べておくと、被告らの引用する確認書の記載は、学生自治団体との合意がなければ教授会は何事も進められないという趣旨ではない。また、右確認書によって、原告の引用に係る東大ポポロ事件最高裁判決の示した憲法二三条の解釈が左右されないことはいうまでもない。」としています。
 国・東大当局の主張は@国有財産法に記載がないので管理権限の委譲はあり得ないA大学自治とは教授会自治のことであり、学生に発言権・参加権はないので、大学自治・学生自治に基づく管理権限の委譲もあり得ない、とまとめることができるでしょう。

2.2.2 国・東大当局の主張の問題性
 国・東大当局の主張は、学生自治の全否定、東大「確認書」の否定、国に対する東大当局の完全屈服、というあまりにひどい内容のものです。皆さんにはこの主張を噛み締め、裁判によってもたらされる代償がいかに大きく、致命的なものであるかを実感していただきたいと思います。

(1) 事実すら改変する形式的法解釈
 寮自治会の主張にあったように実際の駒場寮の運営は寮生の手によってなされており(これは寮自治会への「管理権限の分属」ないし「管理権限の委譲」と呼ばれる状態です。これに対して、国・東大当局は「駒場寮自治会に対してその管理を委任する旨規定した法律はないから、駒場寮自治会が管理権限を有することはあり得ない」という「法律が(正確には法律が存在しないことが)事実を改変する」とでもいうべき論理を展開しています。しかし、3.2.1.2で例証したように、現に入退寮選考を行い入居を許可し、経常費の徴収から各種設備の維持、寮外生の仮宿の許可まであらゆることを行ってきたのは、寮自治会であり、その執行機関である寮委員会なのです。これらの事実を、実際行われてきた状態を全てなかったことにして、「あり得ない」と言い切るのはこの主張がいかに暴論であるかを証明するだけです。白を黒ということすら国・東大当局の主張の中ではまかり通っているのです。

(2) 国と一体になった学生自治の否定
 そして大学内部でそれらの権限を委譲する旨決定してきた、という寮自治会の主張(というより事実)に対し、ついに「大学の自治は教授会の自治である」「学生が発言権・参加権を有するということはできない」という学生自治と東大「確認書」の完全否定の立場を打ち出すのです。東大「確認書」に書かれた「大学の自治は教授会の自治であるという従来の考え方が、もはや不適当であり」「学生・院生、職員も固有の権利を持ち、それぞれの役割において大学の自治を形成するものと考える」という内容と完全に正反対のことを開き直って主張したのです。
 国・文部省はこれまで一貫して学生自治への敵視(または無視)政策を貫いてきました。それは、例えば最近では大学審議会答申「21世紀の大学像と今後の改革方策について」(この具体化が「学校教育法等の一部を改正する法律」通称新大学管理法にあたる)や、独立行政法人化などといった政府の出す今後の大学像の指針において、学生は教育する「対象」としてしか認識されず、いかにその学生を「社会が要請する」人材に育て上げるか、という観点から教育改革が語られていることからも明らかです。ここでは、学生が大学自治の一角をになうような主体的な存在として描かれるようなことは決してありません。そもそも、学生にとってこれらの改革がどのようなものであるか、という学生の立場に立った論考すら全く存在しないのです。国・文部省にとって、現在に至るも学生は「営造物の利用者」に過ぎず、物言わぬ教育対象でしかないのです。また戦後学寮政策を紐解けば、71年の有名な「学寮は紛争の根元地」という答申をはじめとして、自治寮の自治が攻撃対象となってきたという歴史があります。特に最近は、新大管法や独立行政法人化などの一連の動きの中で、「大学自治」を「閉鎖的・硬直的な組織運営」と規定し、教授会自治すら剥奪して学長からのトップダウン体制を構築しようとしている動きが加速しています。そのような中でこの裁判でも国・文部省が学生自治を認めない、という従来通りの姿勢を打ち出すことは全く不当ではあるものの、何ら不思議なことではありません。
 しかしここでより問題とされなければならないのは、そのような国の圧力に屈した東大当局の姿勢なのです。この文章では「国・東大当局」という表現を多用していますが、それはこの裁判の原告が国と東京大学であり、書面や弁論での主張はその両者が一体のものとして行っているからです。しかし、この両者は本来一体のものであってはならないはずです。
 そもそも大学自治とは憲法二三条の「学問の自由」に基き、国家権力その他の外部の権威から大学が独立し、組織体としての自立性を保つことが確保されているものです(1.1.1(1)参照)。そして、学生自治・寮自治を巡る問題も、「廃寮」決定がなされる91年以前までは、国・文部省と大学自治を根拠に国とは独立した立場にあると認められている東大当局、そして大学の構成員である学生、学生自治団体との間の対立と強調という緊張をはらんだ関係の中で推移してきました(1.1.3参照)。学生自治を認めない政府・文部省からの様々な圧力・要請・是正・指導に対し、東大当局は決してそのいいなりになって学生にあたるのではなく、学生の運動や学生自治団体との交渉を背景として、政府・文部省の政策とは一定独立した立場に立って大学内の問題の解決を図ってきたのです。だからこそ、国・文部省が法律にない故に「あり得ない」という寮自治や学生の自主管理が実際には存在し、また東大当局も学生の自治への参加権を認めた東大確認書を尊重するという立場を取ってきたのです。
 しかし、この裁判では長年寮自治を寮生に完全に委ねてきた東大当局がそんなことは「あり得ない」と主張し、尊重するとしてきた東大「確認書」を自ら否定するというまったく矛盾した主張を行っているのです。これは東大当局が、書面や弁論を完全に法務省の訟務検事(国が当事者の裁判における代理人。法務省の役人で弁護士の役目を果たす)、つまり国家官僚にまかせてしまっているから起こる事態であり、国と大学の一体化が引き起こした大学自治の自殺行為ともいえる事態なのです。

(3) 東大当局の詭弁的弁解
 東大確認書の否定に対する学生からの追求に、永野三郎学部長特別補佐は99年3月の学部交渉において「あれは最高裁判決を引用しただけで、東京大学あるいは法務局の立場ではない。大学自治の経緯の中で引用されている判例の一つに過ぎない」と答え、さらに東大ポポロ事件判決が学部当局の立場とも異なり、確認書からも誤ったものであることを学部当局参加者全員が認めています。その上で永野特別補佐は「この法務局の文章(準備書面)は法務局の主義主張を述べたものでもないし、東大当局の主義主張を述べたものでもない。これが論点なんかでは決してないわけですから」と述べているのです。
 しかしこれが詭弁であることは明らかです。問題の国・東大当局の準備書面を引いてみましょう。ここでは東大ポポロ事件判決を引き、その解釈を1963年判例解説刑事篇から引き写した後、「以上のとおり、大学の自治の主体は、教授その他の研究者の組織であり、学生は営造物の利用者にすぎないのであるから、学生は大学自治の主体であり組織体としての大学の運営に対して発言権・参加権を有する旨の被告らの前記主張(大学自治・学生自治を根拠とした管理権限の委譲)は、東大ポポロ事件最高裁判決の例示に反し、理由がない。」と述べています。これはどこからどう読んでも、ポポロ事件判決を踏襲し、学生に発言権・参加権がないから管理権限の委譲ができないという主旨であり、これが原告である国・東大当局の立場なのです。さらに国財法に記述がないことと並んでこの東大ポポロ事件判決に基づく大学自治の否定が国・東大当局の管理権限の委譲を否定する主要な論拠・「論点」であることも間違いないのです。
 また地裁は判決における「三 争点に関する当事者の主張」の(二)(2)イにおいて先ほど引用した準備書面の部分を全て国・東大当局の主張として記載しているのです。これでもまだこれが国・東大当局が主張したことではないと言い逃れるのでしょうか。

(4) 「確認書」体制の放棄を宣言
 このような明らかに東大「確認書」を否定した論述に対して、寮自治会は釈明を求めました。すると、2.2.1で記したように「確認書は学生自治団体との合意がなければ教授会は何事も進められないという主旨ではない」「確認書によってポポロ事件最高裁判決の示した憲法二三条の解釈(大学の自治は教授会の自治)が左右されないことは言うまでもない」という「確認書」の法的無効性を述べるに至るのです。ここに、ついに「確認書」体制の放棄の意志が明確にあらわされたのです。
 では、東大「確認書」とは、「大学の自治は教授会の自治であるという従来の考え方が、もはや不適当であり」と宣言した評議会の見解とは何だったのでしょうか。「合意がなければ教授会は何事も進められないわけではない」とか、法的効力がないなどとして無効化されてしまうようなものなのでしょうか。それを獲得するために闘った先人の努力とは、学生自治団体が積み上げてきた交渉とは何だったのでしょうか。それらはいとも簡単に東大当局が破棄することができる「確認書」や「合意書」のためだったのでしょうか。断じて違うはずです。明文化された「確認書」「合意書」を取り交わすということはそれによって両者が拘束されることを意味しますし、そうでなければ何ら意味はないのです。そのようにして築き上げられてきた「確認書」「合意書」を学生を訴えた裁判の段になって自ら否定することは許されることではありません。
 確かに、永野尋問では、東大「確認書」の意義を認める証言がなされました。そして現在も東大の学内においては東大当局も「確認書」の尊重を口では唱えています。しかし、国・東大当局の裁判での主張は一審の結審まで結局変わることはありませんでした。この、学内では確認書を尊重するといい、裁判所ではそれを否定するというダブルスタンダード、埋めがたい矛盾は東大当局が自立性を放棄し、国との一体化、屈服の道を選んだことによる代償なのです。そして、こうなることは裁判を提訴する時点で既に明らかであり、にもかかわらず当局執行部は大学自治の死たる裁判の道を選択したのです。

2.3 東京地裁の「判断」とその問題性
2.3.1 東京地裁の「判断」
 まず判決は「駒場寮の管理権限が被告駒場寮自治会に委譲されたものとは認めることができない」と断じています。その理由として「確かに、前提事実2(二)及び(三)のとおり、東京大学においては、東京大学と学生らとの間で、教授会のみならず学生・院生・職員も大学の自治を構成しているということが明文をもって確認されていること、駒場寮の管理についても、被告駒場寮自治会が入寮選考、部屋割り及び退寮処置等を行っていたものであり、被告駒場寮自治会の行う右の寮管理の実際に東京大学や教養学部が干渉することはなかったこと、教養学部第八委員会は寮自治の慣行を尊重し、寮生活に重大なかかわりを持つ間題について大学の公的な意思表明があるときには、寮生の意見を充分に把握・検討して、事前に大学の諸機関に反映させるよう努力する旨確認していることなど、駒場寮の管理の自治について一定の慣行のあったことが認められる。」として学生自治・寮自治の慣行を認めた上で、「学長が有する本権建物の管理権限は法律による委任に基づくものであるところ、法律による行政の法理によれば、右委任された権限を新たに第三者に委任するためには、法律上の根拠が必要であるというべきである。本件において、東京大学が被告駒場寮自治会に対して本件建物の管理権限を委譲する旨の法律は存在しないのであるから、学長が被告駒場寮自治会に対して本件建物の管理権限を委譲することは法律上できないものといわなければならない。」として権限委譲を否定しています。
 また、寮自治会による自主管理に関しては「前記のような駒場寮の管理に関する一定の慣行が存在するとしても、右慣行は、その内容に照らこしてみても、学長が有する行政財産(本件建物)の存廃についての決定権を制限するようなものではないし、その性質上も、東京大学側が学生の自律を尊重して、被告駒場寮自治会に対し本件建物の管理等について一定の事務をゆだねるとともに、寮生活に重大なかかわりを持つ間題については寮生の意思を反映させるように努力するという事実上の措置にとどまるものであり、それが法的な効力を有するものとは認められないから、右慣行が存在することにより直ちに学長が被告駒場寮自治会に対して本件建物の管理権限を委譲したとか、その管理権限に対する制限を容認したとかいうことはできない。」と述べてその権限を否定しているのです。
 さらに、「確かに、大学は、学生の教育と学術の研究を目的とする公共的な施設であり、法律に格別の規定がない場合でも、その設置日的を達成するために必要な事項を学則等により一方的に制定し、これによって在学する学生を規律する包括的権能を有するものと解することができる」として、大学における自律的法規範の制定について認めながらも、「大学の自治を根拠に考察してみても、およそ大学について、法律に明文の規定がある事項について、これと抵触する事項を学則等により自在に制定する権限があるということはできない。」と述べています。
 事実たる慣習に基づく管理権限に関しては「法例二条は、公序良俗に反しない慣習のうち、法令の規定によって認めたもの及び法令に規定のない事項に関するものに限り法律と同じ効力を認めた規定であるところ、本件においては、本件建物の管理について法令に規定が存在するのであるから、法例二条が適用される余地はない」と述べ、また民法九二条に関しては「被告らの主張する慣習は強行規定である国有財産法一八条の規定に抵触する」としてこれも退けています。

 これらの主張をまとめるならば、やはり基本的には国・東大当局の論拠を追認しながら、国有財産法に規定がないので権限を委譲することは「法律上できない」としています。また寮自治会による管理・運営は「一定の事務をゆだねる」レベルに留まるものであり、八四合意書などの意思決定要件を定めた合意は「事実上の措置にとどまる」ものであり、「それが法的な効力を有するものとは認められない」ので「学長が有する行政財産(本件建物)の存廃についての決定権を制限するようなものではない」とされているのです。

2.3.2 東京地裁の「判断」の問題性
2.3.2.1 「法律による行政の法理」論の問題性
 判決の寮自治会への権限委譲が「法律上できない」としている根拠は@寮自治会に権限を委譲する法律が存在しないこと、A法律による行政の法理によれば権限委譲には法律上の根拠が必要、の二点からといえます。しかし、国有財産法等の法律に逆に駒場寮自治会への権限の委譲を禁ずる明文の規定もまた存在しません。つまり国有財産法に「抵触する」という記述は、抵触する法律が「ある」ためではなく、法律が「ない」ことと「法律による行政の法理」の二点から導き出されたものなのです。
 しかし「法律による行政の法理」、法律の記載にないことは行政は行うことができない、の本質的な意味は、行政に対する立法の優位、すなわち国民主権の徹底という点にあります。さらに、基本的人権の尊重という観点から、行政が国民の権利を侵害・制約するような行為(処分)を行うには、法律の規定に基づかなければならないということも意味しているのです。しかし駒場寮の管理権限の委譲の問題は、大学という機関において、どこに管理運営をまかせるかという行政の権限の分配に類似する問題なのです。権限の分配に関する問題は国民の権利を侵害・制約するような行政作用の根拠ないし基準を定める行政作用法とは区別されなければならない、というのが一般的な解釈とされます。さらに行政の権限の分配に関しては必ずしも法律上明文の規定がなくても、それぞれの組織の自律性にゆだねられるべきものであるというのが一般的な法解釈なのです。
 このように法律が「ない」ことと、駒場寮の管理権限の委譲の問題に適用すべきでない「法律による行政の法理」を組み合わせて、法律に「抵触」するため「できない」との結論を導き出すことは誤りなのです。

2.3.2.2 大学自治に基づく大学の自律性への侵犯
 判決では大学が自立的法規範を定める権利を認めながらも、「法律に明文の規定がある事項について、これと抵触する事項を学則等により自在に制定する権限があるということはできない」として権限委譲を否定しています。しかし、3.2.3.2.1でも述べたように、「抵触」する法律は存在しないのです。ここでも同様に、「法律による行政の原理(法理)」を持ち出していますが、これがこの問題において適用されないことは先に述べました。逆にこのような言葉を付加しなければならないこと自体が、地裁も寮自治会への管理権限の委譲に「抵触する」「法律の明文の規定」が存在しないことを認めざるを得なかったからにほかならないのです。ですから大学が自立的に寮自治会に権限委譲を決定することはやはり可能であり、この判決が不可能であると断ずることは大学の自律性の侵害にもあたるのです。

2.3.2.3 権限委譲に関する事実認定の誤り
 判決では、「前提事実」の項において東大確認書や八四合意書、さらに寮自治会による駒場寮の広範な自主管理の存在を認定しています。しかし、これらの事実は「事実上の措置にとどまる」「一定の事務を委ねる」ようなものであったとし、「それが法的な効力を有するものとは認められないから、右慣行が存在することにより直ちに学長が被告駒場寮自治会に対して本件建物の管理権限を委譲したとか、その管理権限に対する制限を容認したとかいうことはできない」としています。
 しかし、寮自治会による管理運営や学部当局との合意は「事実上の措置」やましてや「一定の事務」などという程度に留まるものではありません。寮内の管理運営に関しては、すべて寮生が自ら総代会や寮委員会で民主的に決定し実行していたのであり、それは学部当局が委ねた「一定の事務」などというものには矮小化し得ないのです。与えられた事務をこなすだけ、というものが自主管理の実態では断じてないのです。
 また、2.1.1でも述べたように、寮自治会が駒場寮の管理権限を有することは、東大当局と寮自治会の双方を拘束する形で繰り返し確認され、それが時には明文化までされながら、それぞれの当事者がこれを遵守すべきという規範意識を共有してきたのです。明文化までされた合意は、一方で東大当局が駒場寮自治会に法的な権限を与え、他方では東大当局が駒場寮に関する権限の行使に対する制約を容認したことを意味します。なぜなら最終的な地点で、東大当局が一方的に破棄を通告できるような合意は強制力を持ち得ず、両者の一致点として明文化された合意、つまるところ契約は遵守されることによって意味を持つからです。つまり合意を結ぶとは、「制限を容認」することと同義なのです。
 しかし地裁は、寮自治会による管理運営、合意の存在を認定しながらも、管理権限は委譲されず法的拘束力はないと強弁します。そしてその根拠も「その内容に照らこしてみても」とか「その性質上も」などといった理由にならないような文言が付帯されているだけで、なぜ寮自治会の自主管理や東大当局との合意が「事実上の措置」「一定の事務」に留まるかは明確に示されていないのです。この埋めがたい飛躍は「法律上あり得ない」という法的解釈が先にあり、それが事実を改変しているために起こっているといえます。2.3.2.1で論証したように、「あり得ない」という法的解釈は誤りなのですが、まず先にこれが国・東大当局の主張をそのまま踏襲した地裁の判断としてあったものと思われます。しかし実態を見るに寮自治会への管理権限の委譲及び意思決定要件への拘束を含む合意が事実としてなされており、「法律上あり得ない」ことを東京東大当局が行っていたため、この辻褄をあわせるために管理の実態や合意を「一定の事務」「事実上の措置」に矮小化したのです。このように改変・矮小化された「事実認定」が誤りであることは自明なのです。

2.3.2.4 慣習に基づく駒場寮自治会の管理権限について
 慣習に基づく管理権限が認められない理由として判決は、法令二条は「規定が存在する」こと、民法九二条は「強行規定である国有財産法一八条の規定に抵触する」ことを挙げていますが、2.3.2.2で述べたように「抵触」する規定は存在しません。よってこの判断も誤りといえます。

2.4 管理権限は存在するか
 寮自治会に管理権限は間違いなく存在します。それは過去、そして現在も行われている駒場寮の自主管理の実態が雄弁に物語っていることです。そして確認書、合意書の存在も歴史から消し去ることはできません。合意書違反、大学自治の慣行破りに端を発する駒場寮問題は、当事者である東大当局自身が自らが結んだ「合意書」「確認書」を否定することによってしか「廃寮」の「合法」性を論証できませんでした。そして、それは国に引きずられる形での学生自治の否定、大学内の自律性の喪失、学内と裁判所での矛盾に満ちた主張の乖離などを産んでいるのです。
 なお判決は大学自治が教授会自治なのか、それとも学生自治までも含むものなのかは明確には論じていません。実質的に東大「確認書」を意思決定要件への制約として認めなかったことから、それは教授会自治であるという立場を踏襲したのでしょうが、あえて「大学自治とは教授会自治である」と明言することを避けたのです。東大ポポロ事件最高裁判決(1963年)以来現在まで長い年月が経ち、その間に多くの学生自治を認める判例が出されました。つまり、学生自治を認めるか否かということは判断が分かれるところであり、そのような問題についてはあえて判断を回避した、と見るのが正しいのではないでしょうか。ところが地裁がその程度の分別(争点回避というのが正しいのかも知れません)を見せたのに対し、逆に学生自治を擁護する立場に立たねばならない東大当局自身が先んじて大学自治は教授会自治にあらずと宣言し、これまでの立場を翻す主張を行ったのです。このような東大当局執行部を我々は東大の構成員として徹底的に糾弾していかねばならないでしょう。
 駒場寮の自主管理の「事務」への矮小化、「確認書」「合意書」の法的無効性は駒場寮だけの問題に留まるではないでしょう。駒場寮は学内において、最も学生による自主管理が貫徹された施設ですが、それさえも委任された「事務」に貶められるのならば、学生会館の自主管理も、そのほかの学生の施設もゆくゆくはそのように見なされ、そして実態も「一定の事務」に貶められていく危険性があります。また、自治団体と東大当局の間でいかに合意を結ぼうとも、それらが最終的に何ら拘束力を持たないのであれば、どのようにして合意をつくり当局と学生の間の信頼関係を構築すればよいのでしょうか。そして東大当局も権限委譲が「できない」と判示されたことによって、法律に書いていないことは全くできないという極めて不自由な大学運営を強いられることとなるのです。
 さらに、これは全国的な問題でもあります。様々な大学で、様々な形態で学生は権限を委譲され、権利を行使してきました。24時間自主管理の学生会館や、自由な教室使用、一橋大の(先年文部省の圧力により撤廃させられた)学長投票など、それらの学生自治・自主活動も制限してゆく道筋をこの裁判がつけたともいえるのです。

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