第三部 争点に関する三者の主張とその分析

 ここでは寮自治会の準備書面(一)〜(十)、国・東大当局準備書面(一)〜(六)、そして地裁判決を基礎資料としつつ、それぞれの争点に対する三者の主張とその分析を行います。

1 駒場寮問題は裁判で扱うべき問題か
 駒場寮「明け渡し」裁判それ自体の問題として、駒場寮自治会は提訴以前から、大学内の問題を解決するのに裁判は不適当であるばかりか大学自治に対する致命的な打撃すら導きかねない、と主張してきました。これは、裁判の場でも主張され、法的には「本案前の抗弁」といわれるものです。つまり審理に入ること自体が間違いであり、直ちに却下すべきであるという主張です。

1.1 寮自治会の主張
1.1.1 大学自治と東大における学生自治
(1) 「学問の自由」に基づく大学自治の意義
 ここでの主張は法的には憲法第23条の「学問の自由」をその根拠としています。学問の自由は、戦前は「天皇機関説」事件や京大滝川事件にみられるように頻繁に「政治」による干渉にさらされてきました。このため戦後は、大学における学問研究は、大学が国家権力その他の外部の権威から独立し、組織体としての自律性を保障されることなしには不可能であるという反省のもと、大学自治はこの「学問の自由」を保障するための必要不可欠な制度的保証として憲法上位置づけられるようになったのです。

(2) 東大「確認書」と学生自治・寮自治
 特に東京大学においては教授会自治のみならず、東大闘争を通して締結された「東大確認書」が存在し、この中では「大学の管理運営の改革について」、(判決でも引用されているように)「東大当局は、大学の自治が教授会の自治であるという従来の考え方が現時点において誤りであることを認め、学生・院生・職員もそれぞれ固有の権利をもって大学の自治を形成していることを確認する。」ことが明言されています。ここで特筆すべきことは、東京大学においては、大学自治における「学生の固有の権利」が「確認書」という形で学生と大学との間の双方を拘束する明確な合意とされたことでしょう。
 こうして、東京大学では、学生も「固有の権利」をもって大学自治を形成する主体であること(全構成員自治の原則)が大学自治の原則として確認され、学生生活に関わる重要問題は、東大当局と学生との誠実な交渉を通じて解決するというルールが確立されてきたのです。
 これは駒場寮に関わる問題においても同様であり、東大闘争の際の駒場寮自治会、東大寮連との「確認書」や、84年に結ばれた八四合意書など、寮生による寮自治に基づく駒場寮の自主管理を認め、寮生との合意によって問題を解決するという多数の協定が締結されてきました。そして、これらは長年にわたる大学と寮自治会との交渉を経て形成された合意と信頼関係を基盤に確立されてきたものなのです。

(3) 大学自治の原則に反する東大当局の「廃寮」強行
 ところが、駒場寮「廃寮」強行の課程において、東大当局はこうした東京大学の歴史において確立されてきた全構成員自治のルールや寮自治会との合意を踏みにじってきました。東大当局は、1991年10月9日、学生自治会及び寮自治会の同意を得るどころか事前の協議すら行わないまま一方的に教授会で駒場寮の「廃寮」を決定し、決定後は、学生の「廃寮」反対の意見に一切耳を貸そうとしなかったのです。
 しかも東大当局は、1996年4月以降、多数の寮生が現実に生活しているにもかかわらず、電気・ガスの供給を止めるという暴挙に出て、その後もあらゆる手段を使って寮生を実力で立ち退かせようとしました。
 駒場寮「廃寮」問題が9年近くにわたって解決を見ない理由は、東大当局が自らが確認した全構成員自治のルールを踏みにじり、理性の府たる大学にあるまじき強引かつ強権的な方法で廃寮を強行しようとしていることにあります。
 東大当局はさらに大学自治による解決を放棄して裁判による解決に訴えましたが、そのこと自体が東大当局の「廃寮」強行が学生をはじめ全大学人の支持を得られる正当性を有していないことを示すものにほかならなりません。こうした東大当局の姿勢は大学自治の基盤を自ら破壊するものなのです。
 東大当局は「確認書」の原点にかえり、全構成員自治のルールに則り、「廃寮」決定を既成事実として押しつける態度を改め、寮自治会及び学生自治会との誠実な話し合いによる解決の道を模索すべきなのです。

1.1.2 駒場寮問題の争点と司法権の限界
(1) 駒場寮問題の争点
 駒場寮問題において「問題」化されていることは、まず「廃寮」決定において当事者たる寮自治会との合意を無視し学生自治のルールを踏みにじったこと、その後の「廃寮」計画強行の過程において学生の意思表示をすべて無視したこと、そして96年以後特に激化した実力での「廃寮」化攻撃において為された大学にあるまじき様々な犯罪的行為、などが挙げられます。さらに、寮生の自治による自主管理空間であった駒場寮、学内自治寮としての駒場寮の有する様々な意義・価値が「廃寮」によって失われるだろうことも同様に「問題」として挙げられるでしょう。
 極めて大まかに「廃寮」の問題性をつかんだだけで、この問題がただ単に学内の福利厚生施設がどうなるのか、東大の学生寮がどのように変遷していくのか、という施設の問題に留まらず、ましてや所有権を有する国とそこを「占拠」する個人の紛争などということでは決してなく、学生自治を内包した形での大学の意志決定などの問題であるということがわかるかと思います。この問題の核心は大学と学生との間で長年にわたって確立されてきた寮自治・学生自治が東大当局によっていとも簡単に反故にされ、一方的に否定・消滅させられてしまってよいのか、ということを問うているのです。
 実際に裁判においても、@駒場寮自治会は寮自治のもと駒場寮の管理権限を有していたか、A学生自治を無視した「廃寮」決定は有効か、B東大当局の「明け渡し」請求は権利濫用か、といったことが争点として挙げられています。これらの争点は密接に学生自治・大学自治の問題を問うものなのです。

(2) 大学内の自立的規範としての寮自治・確認書・合意書
1.1.1(1)(2)で触れたように「学問の自由」の制度的保証としての大学自治は、東京大学では東大闘争に代表される闘いによって、教授会のみの自治から学生、職員の参加をも認めるような全構成員自治へと進化してきました。このような大学の意志決定・管理運営における(自治の主体的構成者としての)学生の参加権は、大学の内部において自立的に決定されてきたのです。これはそのような自立的規範を決める権限を大学が自治権に基づいて持っているとともに、法律が大学内の運営について細かく規定していないことを同様に示しています。例えば学則や学部則なども大学内において定められた自立的規範ですし、学生自治のルールや、各種確認書・合意書、さらに駒場寮の管理を寮生の自治によって担うという寮自治も大学内の自立的規範なのです。自分で決めたルールは自分で守るのは当然であるように、東大当局は大学の管理運営を行う執行機関としてこれらの自立的規範に基づき大学の管理運営を行わねばなりません。当事者不在の「廃寮」決定や、合意書違反はこの点で糾弾されなければならないのです。

(3) 司法権の限界
 駒場寮問題を裁判で扱うべきでない法的な主張は、この問題は「法律上の争訟」にあたらず、これを裁判で裁くことは司法権の限界を超える、というものです。「法律上の争訟」にあたらない典型的な事例として、「自立的な法規範を有する社会ないし団体の内部規律の問題として、当該社会ないし団体の自治的措置に任せられるべき紛争」が挙げられます。このような紛争・問題は「法令の適用によって終局的に解決することのできないものとして、法律上の争訟にはあたらない」という判断が最高裁にて示されています。東大における大学自治・学生自治の拡大・発展の経緯と現状から見ても、駒場寮問題がこれに該当することは明らかなのです。
 裁判では争点に対する司法の判断を示さなくてはなりません。しかし、この裁判における争点とは先に述べたように学生自治、学生の大学の意志決定・管理運営への参加権、寮自治における寮自治会の権限といったことなのです。しかしこれらの学生自治・学生の参加権は法律によって定められたものではなく、大学が自治に基づいて自立的に設定した規範なのですから、こうして定められた自立的規範としての学生自治・寮自治の効力を司法が判断することは不可能なのです。もしこの問題を裁判所で扱うとすれば、それは司法権の限界を超えて「大学の自治」の核心に裁判所が踏み込むこととなり、許されないのです。

1.1.3 駒場寮をめぐる問題の実態と裁判のもたらす影響
 国・東大当局は「所有者」たる国と「占拠者」たる寮生個人の法的紛争という枠組みのみによって、この問題を論じています。しかし、これは駒場寮に関する問題の扱い方として甚だしく誤ったものであり、同時に裁判官にそのような実態からかけ離れた認識を与えようとする悪質な主張なのです。
 駒場寮ではその管理運営に関して、150期、50年の歴史の中で問題が存在しなかった時期はないといえるほど多くの問題が生まれ、そして解決されてきました。例えば、1964年の入寮許可証発行問題や1984年の負担区分闘争などを代表的なものとして挙げることができます。これらの問題は政府・文部省と東大当局と寮自治会という三者の関係性を正確に把握することなしに理解することはできません。
 国有財産である駒場寮の法的な所有者である国=政府・文部省は、いわゆる学寮政策のもと、大学に対して様々な指摘、要請、通達を予算配分や人事などを利用した圧力を通して行ってきました。学寮政策は時代によって変遷をとげるものの、学生寮における当局の管理強化の貫徹、「受益者負担主義」の徹底、寮自治の否定・無視、個別の学生の分断、学生の負担増による教育の機会均等の保障の縮小・撤廃、といった基本的な姿勢は変わっていません。これらの政策は学生運動の高揚を攻撃の対象としてきた政府・文部省が、共同生活とそれを自己決定する寮自治において人格形成、批判的視座を養うことができたため、しばしば運動の中心となった学生寮と寮自治を「学寮は紛争の根元地(1971年中教審答申)」とまで認定して敵視するようになったことから導かれているのです。
 これらの政府・文部省からの様々な圧力に対して、大学はそれを唯々諾々と受け入れるのではなく、学生の運動を背景にして、政府・文部省の政策とは一定独立した立場に立って寮問題の解決を図ってきました。少なくとも80年代までは、東大当局も寮自治会との交渉を通して寮に関する問題を大学内で解決し、東大当局と寮自治会はともに外圧としての政府・文部省の政策に抗するという構図が存在していたのです。
 このように寮問題は政府・文部省、東大当局、寮自治会の三者の対立と強調をはらんだ関係のなかで解決されてきた問題です。しかし現在、東大当局は国の圧力に屈し、これまでの寮に関わる合意に基づく問題解決をなかったかのように扱い、突如寮の問題とは国有財産法の問題であるとして全く実態とは異なる法律論でこの問題を解決しようとしています。そもそも、国と一線を画すべき立場にある大学が国と一体となって学生を訴えていること自体が、大学の自治の否定につながる暴挙なのです。実際この裁判では、東大「確認書」を真っ向から否定する準備書面が原告側から提出され、東大「確認書」を尊重するはずの東大当局が、それを否定・無視する国に自らの自立性をかなぐり捨てて追従するという醜態を晒しています。
 この裁判がもしこのまま進行すれば、東大当局自身の国に対する独立性・自主性の放棄と、司法による大学自治・学生自治への介入という二重の蹂躙によって大学自治は死に絶えるでしょう。「学問の自由」や「大学自治」を死文化させ、形骸化させることを阻止するためにも、この問題を裁判で裁くことなく大学内での解決に委ねることが必要なのです。

1.2 国・東大当局の主張とその問題性
1.2.1 国・東大当局の主張━━「問題は占有権原のみ」
 この問題は裁判で扱うべきではないという寮自治会の主張に対する国・東大当局の主張は「この裁判は、国有財産である駒場寮建物を所有権に基づいて明け渡しを求めるもので、原告たる国・大学と被告たる寮生個人の間の具体的な権利義務に関する紛争である。よって、大学の内部的問題ではない。また、明け渡し裁判である以上、問題となるのは占有権原があるかどうか、という点のみであり、これは大学内で自治的に決められるものではなく、すべて民法、国有財産法などの法令の定めのみによって決定される(判断できる)。」というものでした。つまりこれは駒場寮問題をその経緯、本質など一切捨象して、ただ単に寮生個人が国の建物を占拠しているという問題と規定し、それを明け渡させる裁判であるという主張を行ったのです。

1.2.2 国・東大当局の主張の問題性
 この主張の問題性は、駒場寮問題の本質を地裁に見誤らせる意図をもったものであること、そしてとにかく実力での叩き出し、つまり「強制執行」において問題の「解決」を図ろうという姿勢を露わにしたこと、大学自治への司法の介入を積極的に認めたこと、などを挙げることができます。
 駒場寮問題とは、第3部1.1.2でも述べたように学生自治を内包した大学の意志決定の問題であり、国・東大当局が主張しているような「国・大学と寮生個人の間の具体的な権利義務に関する紛争」ではありません。さらに「占有権原があるかどうか」、現在の寮生個人が寮にいる権利があるかどうか、のみが問題の本質では決してないのです。私たち駒場寮の寮生は自分たちが在寮する期間だけ寮に住ませてくれ、などということを主張・要求しているわけではありません。91年10月の「廃寮」決定以来、学部当局が寮の存在を認めていた(自分の在寮期限は保証されている)頃から、寮自治会が、寮生が主張してきたのは、今後とも駒場寮を存続させることであり、それは次代の寮生・学生にこの価値ある駒場寮を残すためでした。そのような視野の上で「廃寮」によって駒場寮の多くの価値が失われることや、一方的な「廃寮」決定が問題化されてきたのです。
 また、この問題は「占有権原の存否のみが問題とされる」ため「すべて民法、国有財産法などの法令の定めのみによって決定」でき、「大学の内部的問題ではない」とされています。しかし現在、寮生の居住が「問題」化されているという状態は、そもそも「廃寮」決定とその後の「廃寮」強行が学内において解決されていないという状況から導かれているものなのです。問題の本質的部分を切り捨てて現在の寮生の居住を「廃寮」下における「占拠」状態と規定し、その「明け渡し」を求めるという提訴自体が問題のすり替えの上に成り立っているのです。そのようなすり替えに基づいて「占有権原の存否」のみへの焦点化、国有財産法のみで裁けという姿勢、そして寮問題が「大学の内部的問題ではない」とするありえない論理を組み立てているのです。これは意図的に問題の現象的な一面を取り出して「明け渡し」を求めるといういわば詐術なのです。
 またこの主張は、明らかな学内問題である寮問題を「大学の内部的問題ではない」と強弁することで、(裁判に提訴したこと自体が大学自治の放棄なのだから、当然の帰結といえるのかもしれませんが)国と一体になって自ら大学自治への司法の積極的介入を誘導するものとなっています。これは大学自治、大学の自立性を売り渡した許されざる行為なのです。そしてこの提訴、そして一審判決は今後の東京大学の、そして全国の大学の大学自治の自立性と学生自治の内実に深刻かつ致命的な影響を与える危険性があるのです。
 このような実態とかけ離れ、大学自治を売り渡す主張をなぜ東大当局は行ったのでしょうか。それはつまり、何故「明け渡し」裁判を提訴したのかということに関わってきます。これは東大当局がいうように「公正な第三者の判断を仰ぐ」ためでは決してなく、判決の御旗を押し立てて、「強制執行」を行うことによって寮問題を「解決」するためなのです。これは、判決確定の前に強制執行のできる「仮執行」の申し立てをしていることからも明らかです。国・東大当局はこの問題の争点を「占有権原があるかどうか」に矮小化し、同時に「所有者」と「占拠者(駒場寮の寮生は勝手に住み着いた『占拠者』ではなく、寮自治会の選考によって入寮した東大の学生です。これは学部当局が寮自治会を『非公認化』する96年4月以前となんら変わることはありません)」の紛争という設定を行うことで、「明け渡し」つまり「強制執行」を唯一の「解決」としてそこへのレールを敷いたのです。原告がこのような立場に立つ以上、地裁において(ただでさえ困難な)寮問題の本質的議論ができようはずもありません。
 このように国・東大当局の「法律上の訴訟に該当する」という主張はその内容をみるにつけ、この主張自身が極めて危険なものであり、裁判提訴の問題性が噴出していることに気付かされます。「明け渡し」裁判→「強制執行」での決着を図るという姿勢を打ち出したこの主張は、逆にその危険性・問題性によって、駒場寮問題は裁判で扱うべき問題ではないということを論証しているのです。

1.3 東京地裁の「判断」とその問題性
1.3.1 東京地裁の「判断」━━寮問題の誤認と大学自治への侵犯の正当化
 本案前の抗弁に対する、地裁の「判断」は「本件訴訟は、廃寮となった本件建物を被告らがなお寄宿寮として使用することができるかという私法上の当事者間の具体的権利義務の存否に関わる紛争であるから、東京大学内の内部的な問題にとどまらず一般市民法秩序と直接の関係を有することは明らかである。従って、右紛争は司法審査の対象となり、法律上の争訟に当たることが明らかというべきである。」とした上で、
「大学の自治は憲法上の学問の自由に含まれる制度的な保障であると解されているとおり、法的な概念であり、裁判所は司法権を付与された国家機関として、法律上の争訟の審判に際し大学の自治の内容について判断できないとするいわれはないのであって、本件において大学の自治的規範が存在するか否か、仮に存在するとして、その自治的規範が原告の請求権の当否を判断する上でいかなる関係を有するかについて裁判所が判断すること自体は、いささかも大学の自治を侵害するものということはできない。」としています。
 ここで使われている論理のトリックに関しては次の項で詳述しますが、この「判決」は大学自治への司法の介入を「判断できないとするいわれはない」としてそれを臆面もなく正当化しているのです。

1.3.2 東京地裁の「判断」の問題性
(1) 問題(紛争)把握の致命的誤り
 まず、最初の「本件訴訟は、廃寮となった本件建物を被告らがなお寄宿寮として使用することができるかという私法上の当事者間の具体的権利義務の存否に関わる紛争」という問題把握からしてまったくの誤認から出発しています。これは国・東大当局側の書面の「被告らが本件建物を利用する権利(占有権原)を有するか否かという問題」「当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争」という主張の引き写し、丸飲みなのです。我々寮生は「廃寮」後も駒場寮を寄宿寮として使用しようなどと考えているわけでは全くなく、「廃寮」の撤回を求め、その決定と強行の問題性を主張しているのですから、問題の設定・把握自体がまったく間違っているのです。ですから「私法上の当事者間の具体的権利義務の存否」も問題の本質ではないのです。
 判決はあれだけ寮自治会が主張してきた問題の本質を無視し、このような全くの問題の誤認に基づいて「一般市民法秩序と直接の関係を有する」「従って、右紛争は司法審査の対象となり、法律上の争訟に当たる」としていますが、前提の「私法上の当事者間の具体的権利義務の存否」という把握が間違っているのですから、そこから導かれた「一般市民法秩序と直接の関係」も誤りであり、この問題は「東京大学内の内部的な問題」にあくまで留まるものなのです。

(2) 司法による介入の正当化
 そして大学自治への司法の介入を論ずる段では、憲法をだしにした論理のトリックを用いて介入を正当化しています。まず、「大学の自治は憲法上の学問の自由に含まれる制度的な保障であると解されている」というのは問題がないでしょう(1.1.1(1)参照)。しかし、次の「法的な概念であり、裁判所は司法権を付与された国家機関として、法律上の争訟の審判に際し大学の自治の内容について判断できないとするいわれはない」というのはひどい暴論なのです。学問の自由が憲法で約され、それを守る制度的保障として大学の自立性があり、そこから国法で規定されない地点での内部的法規範を決め運用する自律性・独立性が付与されてきたのです。つまり制度的保障とは、自立性・独立性の保障なのです。基本的人権を定めるように、法律の根本原則としての憲法は権利を守るための法なのであり、その自律性・独立性が憲法において擁護されているからといって、憲「法」が擁護しているそれ故に逆に司法がその自律性を蹂躙することが許されるというのはひどい論理上のすり替えと言わねばなりません。「いわれはない」「いささかも……ということはできない」といった強調した文体までもがその強弁の詭弁性を裏付けているのです。このような暴論によって大学自治への侵犯行為を正当化することは、決して許されないことですし、このような「判決」を実効性のあるものとすることは我々大学構成員としてなんとしても阻止しなくてはならないのです。

1.4 駒場寮問題は裁判で扱うべき問題か
 法律論としての主張は別として、駒場寮問題の解決としてはたして本当に裁判という手段がふさわしいのか、という議論が改めて必要でしょう。
 それでは駒場寮問題が裁判に持ち込まれて、望ましい解決がなされるのでしょうか。罪を裁く刑事訴訟と異なり、民事訴訟は当事者同士の解決に勝るものでは決してありません。まず、極めて形式的な手続きを踏まねばならず、審理、議論の内容も法律論に縛られることとなります。次に裁判所は両者の意見を止揚してより良い解決を与えることなどできません。さらに、判決が出たとしてもそれに当事者の合意や納得が付随するわけではなく、より対立の溝が広がることが多いのです。寮問題に即していえば、学内自治寮の駒場寮の意義や東大における学生自治のこれまでの歴史と現在について、実際に地裁は何の「判断」も示しませんでした。また、今後の駒場キャンパスについての大学構成員の間での本質的議論が、地裁においてできようはずもありません。しかし駒場寮問題の本質的部分とは、そのような点なのです。これらを議論することができない場での、ましてやそれらを無視した「決定」「判決」など、どれほどの意味があるのでしょうか。
 では今後駒場寮問題はどのように解決されればよいのでしょうか。それは民主的な、話し合いでの合意に基づく解決という地点に戻るしかありません。学部当局は計画が進んでしまったから不可能である、といいますが、問題をここまで深刻なものとした非民主的な決定を自ら行っておいて、そのことによって民主的な解決手法に戻れないというのは自家撞着であり、確信犯的な大学自治の破壊行為とすらいえます。また、裁判提訴以来「あれは国がやっているのだ」などとして自らの当事者としての主体性を放棄し、思考停止して強制執行の許可を心待ちにしているような態度を直ちにただし、東大当局が主体的により良き解決に向けて話し合いのテーブルにつくことが求められているのです。
 実際に裁判で扱うべきではない、とした寮自治会の主張に対する国・東大当局と地裁の「判断」はあまりにひどいものでした。この問題が大学内の、それも学生自治に密接に関わる問題だということが明白であるにもかかわらず、それを無視して所有者たる国と「占拠者」たる寮生個人の占有をめぐる紛争と規定したのです。そもそも駒場寮問題を「明け渡し」裁判として「提訴」する事自体が、このような誤った規定への道を開いたのですが、我々大学構成員ができることは白を黒という「判断」の非道さを認識し、これを実効性を持ったものとしないために全力を尽くすことなのです。また大学自治への司法の侵犯を暴論によって高らかに正当化したことは、この「判決」を極めて「不当」なものとしています。そしてそのような「判決」を「強制執行」のために引き出し、東大確認書の有名無実化を図り、国と司法に大学自治を売り渡した東京東大当局は断固糾弾されねばならないのです。

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