第15章 長期間の電気供給停止攻撃を闘い抜く

〇、北ホール封鎖強行
 不当な仮処分攻撃によって取り壊された明寮、そして1997年6月28日のガードマンを導入し暴力的に取り壊した寮風呂・北寮裏庇跡地に、「CCCL計画」の一部としてのキャンパスプラザが建設された。このキャンパスプラザのC棟(別称:駒場小空間)は学部当局が寮食堂北ホールの「代替」として設定し、駒場寮の「廃寮」、寮施設の取り壊しを前提として建設が強行された極めて問題の多い施設であった。学部当局はこのC棟が完成した後の1998年7月21日の学部交渉の席上、突如北ホールはC棟によって「代替」された、として北ホールの封鎖を宣言する。寮食堂は長年小劇場として使われてきた北ホール、寮食堂であり生協が撤退した後も音楽サークルなどの大規模練習場として毎日貸し出されていた南ホール、そして厨房、の3つのスペースよって大きく区分されていた。学部当局は、南ホールをサークルスペースとして認めず、北ホールの駒場小劇場のC棟への「代替」をもって寮食堂全体を取り壊すことを言明しており、その第一段階として北ホールの封鎖を宣言したのである。
 しかし、寮食堂は当然ながら寮施設の一部であり、長年寮委員会が管理をおこなってきた。また、駒場に極めて少ない大規模練習場として、劇団の公演の場所として貴重な南北ホールを含み、学生の自主活動への影響も甚大であった。これを寮生・学生との合意なく取り壊すこと自体全く許せないことであるし、その前段階としての一方的な北ホール封鎖は許されるものではない。
 8月11日、学部当局は「北ホール封鎖を阻止すれば寮食堂全体を取り壊す」との恫喝をかけつつ、北ホール封鎖を強行した。寮生が、では北ホール封鎖阻止をしなければ寮食堂を取り壊さないと確約するのか、と問いただしたところ、確約はしないが阻止すれば直ちに取り壊すとの不当な恫喝を繰り返したのである。

一、南ホール放火テロル
 1998年9月3日、午前5時過ぎ、全寮の照明が瞬いた後フッと消えた。原因調査に走ったすぐに寮生が南ホールから出火しているのを発見。停電は寮食堂から引いていた電気コードが焼き切れたことによるものであった。寮生が初期消火を行い、後に消防車が到着、まもなく鎮火した。被害は天井が焦げ、一部穴があいた程度であった。消防の現場検証の結果は不審火の可能性が高いとのことであったが、警察はまともに現場検証、犯人調べもしようとせず、後日寮生の調査によって数カ所への放火の跡、放火に使われたポリタン、布団などが発見された。この組織的な放火は明らかに駒場寮への攻撃、テロルとして認識されなければならない。
 寮生の初期消火のため、全焼を免れたのもつかの間、学部当局は早くもその日の内に「危険」であるとして南ホールを封鎖しようとした。犯人さがしや修復・再発防止ではなく放火を口実とした封鎖を、それも極めて迅速に行ったことから、当局がこの放火を犯罪としてではなく駒場寮への攻撃の「好機」として受け取ったことが明らかとなった。その日の午後より学生委員会、翌四日に永野学部長特別補佐及び三鷹特別委と交渉し、南ホールの修復を求めたが、当局は「壊す予定の建物を修復することはありえない」という不当な態度に終始した。そして9月5日に南ホールの焼け跡を掃除した時、はじめて寮食堂自体への送電が断たれていることが判明する。これは放火直後に当局が業者を使って配線を寸断したことが後日明らかとなった。初期消火を行い、その後も電気が消えた中、夜を徹して見回りなど再発防止につとめた寮生にたいして、当局は電気の供給停止という非人道的手段をもって応えたのである。そしてこれが半年以上に渡る過酷な停電下での闘争の始まりだったのである。

二、電気復旧を求めた運動
 学生自治会の許可を得て、ロッカールームよりわずかな電気を引きほんの数部屋に灯りがともる中、寮生は断固として当局を追及し、学内世論の高揚によって電気を復旧すべく奮闘する決意を固めていた。9月6日には学部長、評議員宅へのポスティング、そして翌7日には101号館の施設掛(電気はここで取り扱う)になぜ寮食堂への送電が停止したのかの事情説明を求めた。しかしあろうことか施設掛長は昼休みが終わっても職場を放棄して現れず、経理課長、事務部長、学部長と責任者はことごとく逃走し満足な説明はなされなかった。しかし翌日に説明の時間がもたれることが約束された。しかしこの日のやりとりで当局が業者に切らせたことが明らかとなり、寮生の怒りは爆発する。さらに翌7日説明を受けるべく学生課に向かうと、学生委員が「101号館に駒場寮に居座るものが侵入し職員を監禁状態におき『約束』をするよう強要した」などというビラを提示し、説明はしないと言い放った。これを追及すると、「職員はその職務内容に関して答える義務はない」「昨日は101号館に学生は入ることができない日だった」などと支離滅裂なことをいうばかりであった。
 これらの追及と平行して寮委員会は学生自治会と協力して「駒場寮の電気復旧、南ホールの修復を求める緊急署名」を九月七日より集め始めた。理系のみのテスト期間にも関わらず、わずか2日間で715筆もの署名が集まり、学部当局の放火に乗じた卑劣な攻撃が寮外の学生からも強い非難にさらされていることが明らかになった。この署名をたずさえ、7日に永野学部長特別補佐と三鷹特別委と交渉を持つが、学部当局は「駒場寮は電気がついていないのが正常だ」「危険なところにいる方が悪い」「火事になったら自分で逃げろ」「安全確認、防犯上の問題がクリアされなければ電気は供給しない。防犯上の問題とは寮生が盗電すること」「署名は参考にするだけ」などとしてこれを機会に寮生を叩き出すという姿勢をあらわにしただけであった。
 電気供給停止が、テスト期間であったことも忘れてはならない。寮生は、電気を断たれ、学生としてテスト前に勉強する権利さえ奪われたのである。しかしテスト期間であっても、寮生は交渉、抗議行動、署名集め、夜の警備などを通して、非道な学部当局からの攻撃に抗して徹底的に戦い抜いたのである。
 そして10月12日、冬学期が開講する。寮委員会は停電下で寮生の送っている非人間的な生活を打開すべく、学内への運動を開始した。毎日、ビラ撒き、クラス入り、署名集めなどを精力的に行い、一週目は駒場寮の停電下での惨状、二週目以降はそれに加えて当局の不当性や駒場寮存続の価値にまで踏み込んで寮外の学生にも訴えていった。これらの働きかけに呼応して、学内外から署名が集まり、電気・ガス復旧、南ホール存続、裁判取り下げ、「廃寮」反対などのクラスアピールも次々と挙がっていった。そして11月10日の代議員大会では「廃寮」撤回、裁判取り下げ、電気・ガス復旧、南ホールの存続・修復、などの提案が圧倒的多数の賛成で可決された。
 11月16日、この代議員大会決議、署名1736筆、5学生自治団体の協同アピール、12のクラスアピール、とともに電気復旧、南ホールの修復を求める要求書を学部当局に提出しようとした。しかし学部当局は101号館に閂をおろし誰一人として対応はおろか出てくることもしなかった。しかし、偶然通りかかった浅野評議員(現学部長)に受け取らせ、多くの学生の意志と怒りが込められた要求を当局に叩き付けたのである。しかしこの後の交渉(この時点までで署名2100筆突破)でも当局は全くこれらの学生の声に耳を傾けず、「復旧しない」と繰り返すだけであった。

三、停電下での生活の建て直しと寮祭
 駒場寮が当局の攻撃によって長期の停電状況に於かれることはこれがはじめてではない。その都度寮生は過酷な生活に耐え抜き、闘争を貫徹してきたのである。しかし今回の超長期停電はプレハブ棟や寮食堂に類する電気を供給する施設がロッカールームしか存在せず(学生会館委員会は寮委員会からの「電力供給についてのお願い」を拒絶)、寮生は現代日本において「停電下」で長期間、少しでも「人間的・文化的」生活をするという矛盾した状況を生きることを覚悟しなくてはならなかった。恒常的に灯りがともる部屋は全寮でわずか4部屋(寮務室、寮委員長室、北・中フロア部屋)であり、寮生の部屋は日没後はまともに生活できるような状況ではなかった。しかし、各部屋に灯油ランタン(後に灯油ストーブ)が支給され、フロア部屋の活性化など共有部分の一層の活用、フロアの結束強化が図られ、徐々に生活の再建が行われた。電気供給停止攻撃も当然、学部当局が寮生の物理的叩き出しを狙ったものだが、そのような卑劣な攻撃には屈しなかった寮生の奮闘と停電していても寮に入りたいという学生の入寮により、停電の半年間で寮生数はかえって増加したのである。ここに当局のもくろみは完全に粉砕されたのだった。
 秋の寮祭の行われる11月になっても電気復旧の見込みは依然としてたたなかったが、RFJCを中心として着々と寮祭の準備が進められた。特に一年生を中心として製作され、北寮前にそびえ立った駒場史上最大の超巨大立て看板(三六枚看)は停電下にあっても駒場寮健在を強く内外にアピールするものとなった。寮祭も内容の濃い企画が数多く行われ非常な成功の内に終了した。

四、仮処分闘争から、自家発電での「復旧」まで
 電気供給停止直後から、電気復旧を勝ち取る方策が寮生会議・寮委員会で議論され、学内での運動の高揚とともに、電気復旧を求める仮処分の提訴を行うという方針が9月の早い段階で決定された。電気供給停止下での生活は、文化的に最低限度とは到底いえず明らかに生存権の侵害であり、寮生の基本的人権の防衛上仮処分という手段を講じるのもやむを得ない。また、たとえ復旧を命じる決定を出させることは困難であったとしても、同様のケース(大阪市立大志全寮)で和解が成立した前例があり、和解の可能性も追求するというものであった。10月12日、冬学期開講と同時に東京地裁に提訴を行った。債務者は国、学長、教養学部長及び東京電力であり、内容は
 一、東京電力は駒場寮に電気を供給せよ
 二、国、学長、学部長は東京電力の電気供給を妨害するな
というものであった。

 当初はあまりやる気がなさそうであった裁判官も、4回の審尋を通して、寮生のあまりに非人間的な生活を綴った数十もの陳述書や多くの寮生の審尋傍聴行動、学内での運動の盛り上がりを受けて、態度を変化させ、国・大学当局に対し「裁判で係争中でもあるし、少なくとも一審判決が出るまでは通電したらどうか」と働きかけるまでに至った。しかし国側の訟務検事は、「駒場寮自治会が東京電力と契約するのは関知しないが、駒場寮に電気を引くことは認めない」「(『廃寮』以前も)寮自治会や寮生に電気を供給していた事実はなく、大学の建物に通電していたところを寮生が利用していただけだ」などとしてひたすら官僚的答弁に終始した。さらには自ら寮への送電を停止し、用途廃止したにもかかわらず、「送電するためには復旧の費用が必要であり、用途廃止した建物にたいする費用は会計検査院を通せない」ことをたてに和解勧告も全て拒否した。このため裁判官も和解で決着したがっていたが、決定を書かざるをなくなり、12月25日出された決定は国の主張を大幅に認める不当なものであった。
 年が明けて1999年、この電気復旧仮処分の不当な決着を受けて、寮委員会は新入寮生の獲得も視野に入れて、発電機による電気供給の検討に入る。そして寮内での議論の末、2月定例総代会において大型発電機の導入が決まり、3月11日ついに発電機によって全寮への電気供給が開始される。寮生の部屋に光が戻ってきたのは、実に191日ぶりのことであった。
 現在、駒場寮の電気は正常であるかのように見えるかもしれない。しかし未だに電気は断たれたままなのである。寮生の暗闇の中での苦闘の半年があり、現在の自力での発電器の供給がある。それでも供給される電力はかろうじて照明がともる程度でしかない。我々は常に怒りを持って、現在も続く非道な停電攻撃を糾弾し続けなければならない。

[第16章/a>→]