(以下、98年度の寮委員長などが記述)

第14章 「キャンパスプラザ」開館:学生団体間の温度差を利用される

 1998年度当初の状況を整理しよう。駒場寮「明渡し」の本裁判は前年の10月に第一回口頭弁論が開かれ、以後二ヶ月に一度のペースで口頭弁論が行われていた。学部による「違法」 キャンペーン(裁判は始まったばかりであったのに)にもかかわらず、この年は四十数人もの新入寮生を迎えた。
 本裁判が開始されると同時に、学内解決の努力を放棄した学部当局は「廃寮問題はすでに学部の手を離れ、裁判所の判断に委ねられた」という傍観者的な態度を取り、これ以後は前年度までのように「説得隊」を送り込んで寮生を恫喝するといったような、直接的な攻撃を殆どしなくなる(しかしこれは「疲れたから」というのが本音であろう。これほどまでに駒場寮「廃寮」が困難であると考えていなかった学部当局執行部の士気低下は顕著であり、本裁判開始を契機として緊張の糸が切れたかのごとくであった)。この態度により、一九九八年度の前半は学部側にあまり大きな動きはなかった。しかし3月になって突然浮上してき たのが、「キャンパスプラザ」の問題である。
 「キャンパスプラザ」とは、「CCCL」計画の中心というべき施設である。「学生のサークル部室」という名目では文部省から予算が下りないため、実質的にはサークル棟でありなが ら「多文化交流施設」という曖昧な名目で予算を獲得したものである(したがって、留学生との交流のための部屋がアリバイ的に一室設けられている)。「CCCL」計画とはなによりもまず寮潰しのための計画であるから、学部当局の意図したところは、駒場寮の「居住機能は三鷹宿舎に統合し、サークルスペースの機能は「キャンパスプラザ」で代替する」という形 をとることによって駒場寮「廃寮」の口実としようというものであった。明寮は仮処分によって、北寮裏の庇は「キャンパスプラザ」C棟の建設に邪魔になるとの口実によって、それぞれ破壊されサラ地が出現しており、学生の反対にもかかわらず「キャンパスプラザ」建設工事は一方的に進められていた。しかし、駒場の全学生自治団体はそもそも学生の合意のない明寮取り壊しに反対していたため、当然ながら、キャンパスプラザの使用目的や管理運営形態については何も決められていなかった。
 しかし建物の完成を機に事態は急転回する。現実に完成してしまった建物を前にして、 学生団体間の温度差が顕在化した。
 寮自治会はあくまで「廃寮計画」の撤回という根本的な解決がなされない限り、キャンパスプラザの建設にも開館にも反対の立場であった。学生自治会も基本的に寮自治会と立 場を同じくした。
 しかしそれ以外の学生自治団体、つまり学生会館委員会、駒場祭委員会、オリエンテーション委員会は建物の完成を所与の事態と受け止め、従来どおり「学生・寮生の合意のな い廃寮には反対である」との立場はとりつつも、「キャンパスプラザ」に関しては、明寮から叩き出されたサークルの部室の代替を獲得するため開館させよう、という学部当局に協調する方向で開館に備え始めた。
 この温度差を巧妙に利用する舞台となったのが学部当局が提唱したところの「キャンパスプラザ学部学生協議会」である。この問題の多い協議会にはやや詳しい解説が必要であろう。
 学生が学部当局側と交渉するときには、学生全体(あるいは諸学生自治団体間)の意見を取りまとめ、例え内部にさまざまな対立意見があったとしても、話し合いによって最終的には一致させてから相手側との交渉にあたるのが当然である。またそれが学生の利益を代表する自治団体というもののそもそもの役割でもある。要求がバラバラなままではいかなる成果も勝ち取れないのは明らかである。しかし、「開かれた議論の場」などと称された「キャンパスプラザ学部学生協議会」は、各学生団体すべてと学部当局側の学生委員会とが出席するという形態をとった。諸学生自治団体が意見を一致させる前に学部と席を同じくして話し合うということはつまり、学生内の意見の差異や対立を相手の前にさらしだすものに他ならない。もちろん学部側の手の内は明かされないままである。「開かれた議論の場」などと一見心地よい響きを持つこの学部学生協議会は、実際には学部に対して一方的に開かれていたのみであった。寮自治会、学生自治会は従来のような交渉方式を主張し、このような 「話し合い」への出席には反対したが、「べつにいいのではないか」という無自覚な態度の他の自治団体を押さえられなかったため、結局、学生自治会も参加する形になった(もちろん寮自治会は参加をしなかった)。
 学部と学部に協調する学生自治団体に場の雰囲気を作られ、じりじりと押される形で、結局、キャンパスプラザは「運営協議会方式」(形式的にも実質的にも学生団体が管理する学館方式から後退し、実質的には学生管理だが形式的には学生と教官からなる運営協議会が管理団体となる方式)と決定された。これは学生は実務を担うだけで重要な決定は学部当局の拒否した場合は不可能だという、学生が単なる学部の「下働き」になりかねない方式である。学部学生協議会のようなやり方に乗せられるということは、二度と繰り返してはならない失敗である。
 このような経緯を経て、結局キャンパスプラザはサークル棟として6月に開館となり、 プレハブ棟は撤去された。

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