駒場寮「廃寮」の不当性シリーズビラ(2)
反対を踏み潰す学部当局の不当性

 前回のシリーズビラ(1)では、駒場寮問題は教養学部当局が学生・寮生との合意無く、一方的に駒場寮の「廃寮決定」を行い、それを押しつけてきたことに端を発していることについて解説しました。その決定過程において重大な問題があった、不当な駒場寮「廃寮」を強行するための様々な形での学部当局の「不当」上塗りは、まさにここから始まっていきます。
 駒場寮委員会では、駒場寮「廃寮」の不当性について皆さんによく理解してもらうため、ビラを全4回にシリーズ化して作成しました。シリーズ二回目である今回のビラでは、「廃寮決定」後の学生無視・強硬的押しつけについて、できるだけわかりやすく説明していこうと思います。

学生・寮生は一度も、駒場寮「廃寮」に賛成していない
 臨時教授会決定(91年10月)後、学生側から反対の声があがる中、それらに耳を傾けることなく、教授会「決定」からわずか三ヶ月後(92年3月)に、学部当局は「廃寮」計画の強行を宣言しました。これ以降、学部当局は、なんとしても駒場寮潰しをやり遂げようと、反対意見を無視するばかりか、学生の意見を意図的に曲解して、それを駒場寮「廃寮」の根拠としてきました。
 駒場寮「廃寮」決定後の最初の学生側の意思表明は、91年11月の駒場寮総代会(駒場寮の最高意志決定機関)決議、続いて学生自治会代議員大会決議でした。駒場寮総代会では「駒場寮廃寮を前提としないこと」を、また代議員大会では「抱き合わせ廃寮に反対」「学内議論のための三鷹計画の一年凍結」を可決したのです。いずれも当事者との議論抜きでなし崩し的に「三鷹計画」の条件として駒場寮を「廃寮」とすることに反対する点で一致しています。また、93年には駒場寮存続を求める署名2500筆が集まり、「廃寮」反対ストライキ、駒場寮の存続を求め「加藤登紀子コンサート」なども行われました。以降も署名や代議員大会決議を始め、学生側は繰り返し「廃寮」反対の声をあげてきました。
 その一方で、学部当局はしきりに、学生は駒場寮の「廃寮」に賛成した、と言います。その根拠として、91年12月の「無作為抽出アンケート」がありますが、これは「こんなすばらしい学生宿舎ができたら入りたいか」というように、三鷹宿舎の(よい点の)宣伝がほとんどで、駒場寮の「廃寮」計画について正面から尋ねたものではありませんでした。また、学生の声であった「三鷹宿舎建設」「駒場寮「廃寮」反対」を意図的に曲解して、「駒場寮「廃寮」は三鷹計画とは切り離せないから、学生の意見は「廃寮」賛成である」とし、学部当局は駒場寮「廃寮」の有力な根拠であるかのような言い方をしますが、学生の意見は駒場寮「廃寮」と三鷹計画とのリンクに反対するものです。加えて、この時点ではすでに三鷹計画が予算化されており、学生の意見が計画に何らの影響も与えた訳ではないのです。ここには、利用できるものは利用してしまえという、学部当局の卑劣な態度が浮き彫りになっています。実際、94年の交渉では「学生の意志は一貫して廃寮反対である」と、学部当局が認めています。結局、同じ交渉の場での、「学生の意志は重く受け止めるがそれよりも計画の方が遙かに重い」という発言にも見られる通り、学生自治を半ば否定する形で計画最優先の立場を堅持して行われているのが、駒場寮「廃寮」計画に他ならないのです。

反対を踏み潰し、既成事実化を策動する学部当局
 学部当局は「廃寮」反対の世論の高まりをおそれてか、駒場寮「廃寮」の「ムード作り」を画策してきます。反対の声が強くても、「駒場寮跡地」についての計画を学生に宣伝し、「廃寮」既成事実化を進めることにより、学生の間に「あきらめ」の雰囲気を作り上げようとしたのです。しかし、そこで明らかになったのは、「キャンパスの有効利用」など何一つ計画されておらず、「150 億円(うち60億円は募金)集めたらこんなものが作れる」という、ただの机上の空論にすぎませんでした。駒場寮「廃寮」計画の杜撰さが、ここでも露呈したのです。しかし、学部当局は更に既成事実化を進めるため、92年10月に三鷹宿舎の着工を強行します。今、交渉で学部当局は「三鷹宿舎ができてしまったから「廃寮」は撤回できない」と主張します。しかし、「学生の意志は一貫して廃寮反対である」と学部当局も認めるとおり、「駒場寮廃寮のための三鷹建設」に学生が合意したことは一度もない訳ですから、このような主張は単なる話し合い拒否、既成事実化に過ぎず、全く認められないのです。

1991年10月
臨時教授会で、駒場寮「廃寮」決定
1991年12月
学部当局、「アンケート」開始
1992年2月
学部当局、計画強行を宣言
1992年7月
駒場寮「跡地計画」の「公開説明会」
1992年10月
「三鷹国際学生宿舎」着工
1993年2月
三鷹特別委員会交渉において、「署名等,学内世論が盛り上がれば駒場寮は残る」
1993年7月
駒場寮存続を求める署名2500筆提出
1993年11月
学部当局、文書「創造的学園スペース『駒場CCCL』の創成に向けて」発行(CCCL計画発表)
「廃寮」反対ストライキ
「駒場寮存続を考える」加藤登紀子コンサート
1994年7月
学部当局、カラーパンフ「CENTER FOR CREATIVE CAMPUS LIFE 駒場」発行
1994年12月
「入寮募集停止」通達撤回ストライキ
1995年1月
「入寮募集停止」反対の全国集会
1995年4月
学部当局、「入寮募集停止」を宣言
1995年12月
全学投票で、「寮存続または学内寮建設」 が批准される
1996年4月
学部当局、「廃寮」を宣言

学部当局の「交渉」とは
 学部当局はこれまで、学生側と数百回にも上る交渉を行ってきたと主張します。しかし、「交渉」の実態は、「廃寮」を既成事実化し、「駒場寮からいかにでていくか決めろ」というものでした。「死に方を選べ」というのは、交渉ではありません。交渉は双方が誠実に話し合い、意見を出し合う場なのです。このような話し合いをしようとしない態度を全く変えないまま、96年4月、学部当局は駒場寮の「廃寮」を宣言したのです。そして、ここから、なりふり構わぬ暴力的追い出し攻撃が始められるのです。


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