急がれる調停組織の結成
小川 晴久(教養学部教官 東洋思想史専攻)

この二年間の経緯

 大学側(教養学部当局)が廃寮を宣言し、電気・ガスを切って以来、満二年が過ぎ、三年目の四月を迎えようとしている。一昨年九月大学側は法的手段に訴えることを開始、昨年二月に明け渡し断行の仮処分申請の裁判を始め、三月末にその判決が出た。判決の出る直前、原告(大学側)は申請内容を三棟(中寮、北寮、明寮)全体から明寮一棟の明け渡し要求にダウンし、かろうじて勝訴の判決を引き出した。明け渡しの必要度の緊急性を立証するには跡地利用の計画が固まっていない三棟全域を立証するのは困難で、建設予算が下りているキャンパスプラザ(サークル棟と多目的ホール)予定地にひっかかる明寮のみに限定し、緊急性を立証したのである。それを認めた判決ですら、駒場寮廃寮を決めた教授会の決め方には「社会的に非難を受ける余地はあるが、不法ではない」という苦しい言い訳をしなければならない程、駒場寮廃寮決定には、寮生の自治や寮生側の意向を無視した一方的なものがあったのである。新入生諸君、ここの点をしっかり認識してほしい。
 判決直後、大学側はガードマンを大量に雇い、明寮をロックアウトするのであるが、六月末にはキャンパスプラザ建設予定地を囲い込むために、再度ガードマンを動員し、渡り廊下と北寮東側のポーチを力尽くで取り壊した。このときガードマンから暴行を受け負傷した寮生ら四人が、大学当局の三人の教授を訴え、損害賠償の訴訟を起こしている。
 八月末キャンパスプラザ予定地に生えていた桜の大中木四本、メタセコイアの大木二本、ヒマラヤ杉大木一本を含んだ樹木が一週間のうちに伐り倒された。九月から着工に入り、キャンパスプラザはこの三月末にも完成すると言う。これが完成すると北ホールは取り壊される運命にあるといわれ、同時に旧寮食堂として長い歴史と数々の思い出のある南ホールもついでに取り壊すかもしれないと学部当局は最近の教授会で言明している。この一月から戦前の南寮であり、戦後研究棟に変った一研(第一研究棟)の取り壊しが、数理科学研究棟の二期工事が完成するからという理由で始まっている。新入生諸君が目の当たりに見る駒場寮の姿はこの様に外堀が埋められつつある姿であり、落城も時間の問題のように映るとしたら、それは正確な像ではないことを初めに指摘したくて、この二年間の経緯を冒頭に述べる形になった。

法的措置の実態

 大学は昨年十月一日に寮生四十四名を被告にし本訴を起こした。この四月から本格的な攻防が裁判でも始まる。
 大学当局と国側は、国立大学の財産の帰属を争う裁判であり、仮処分裁判で勝訴しているので、短期間で国・大学側勝訴で決着がつくと楽観している。確かに昨年二月に始まり三月末に判決の下りた裁判では、大学の自治、寮の自治、学内寮存廃の是非などは取り上げられず、国有財産法のみで裁くという極めて殺風景なものであった。寮生側は陳述書を沢山用意し、駒場寮の存続を願うOBと現役の教師からも四通の陳述書が提出された。しかし判決は世間の立ち退き要求裁判と同じ次元のもので、理念論争、自治論争、廃寮決定が大学の自治にふさわしいものであったか否かの論争は、何一つ闘わされず、たった一回の審理で結審されてしまった。
 一昨年の夏前の教授会で法的措置に訴えるという大学当局の方針が承認されたときの大義名分は、当事者間(大学側と寮生側)の話し合いでは決着がつかないから、第三者の公正な判断にゆだねるというものだった。大学の自治のあり方や六十年の歴史を持つ学内寮廃止の決定過程の是非を裁判所にゆだねるのも変な話だと思いつつも、「第三者の公正な判断にゆだねる」という言葉に納得して同意した教授会メンバーも多かったのではないかと思う。しかしその内実が「国有財産法だけで裁く」というものであったとしたら、一昨年夏前の教授会了承はありえなかったと思う。まず前述したような当事者間の争点が当然法廷で争われる。次に大学の自治の問題を裁判で裁くのはなじまないからという判断から和解勧告が出るか、和解が成立しなかったときはいくつもの大きな争点に触れた上での判決が下されるものと考えるのが良識である。だからこそ「第三者の公正な判断にゆだねる」という名分が成り立つのである。国有財産法のみに依拠して裁くときは、駒場寮は国有財産である、駒場寮の管理責任者は教養学部長、ひいては東大総長である、駒場寮廃寮決定は教養学部教授会でなされ、東大評議会の承認によって東京大学の意思となっている、駒場寮国有財産である以上、廃寮決定過程が合法的である以上、寮生側の言い分には法的根拠はない。このようないとも簡単な法理で裁かれ、短時間で処理される。明け渡し断行の裁判はまさにそれであった。私達は本当にびっくりした。何一つ争点は裁かれなかったからである。冒頭に述べた「社会的に非難を受ける余地はあるが不法ではない」というくだりでこれらの争点を判断したのであれば、この判断こそ支離滅裂である。第三者の公正な判断と言える代物ではない。
 しかるに大学当局は前述したように本訴でも大学側は勝訴すると楽観視しているが、その根拠は、昨年三月の仮処分裁判で大学側の言い分が全部通ったからだ、としている。

本訴のあるべき姿

 私はここで新入生諸君、そして全東大構成員に訴える。東大当局が本訴に訴えた以上、本訴では学内寮存在の意義(駒場寮が戦前、戦後果たしてきた役割の吟味)、廃寮決定過程が東大確認書や八四合意書(確認書)に違反していないか否かの吟味、大学側が寮生追いだしのために使った数々の手口(親に手紙を送る、奨学金の推薦取り消し措置、指導教官を介しての退去勧告など、弱い立場にある寮生への学問外的手口)の吟味、樹木を大量に伐ることの是非、歴史的文化財としての価値をもつ寮の建物を取り壊すことの是非など、充分に論議されてしかるべきである。本当は「第三者の公正な判断にゆだねる」というのであれば、寮のOBをはじめ、各界の識者からなる機関を大学が組織し、そこに諮問するという形が一番いいのであるが、本訴に訴えた以上、法廷で参考人を呼び、意見を充分にきくべきである。本訴の裁判官たちに訴える。このようなこともせず、仮処分裁判の本訴版という形で本訴の訴訟指揮がなされるのであれば、これは「第三者の公正な判断」にゆだねたことにならない。

学内の自助努力が先行すべき

 学内に寮があることの意味と是非(あの空間は別な用途に使うべきであるという議論がある)をめぐって、本訴では充分に論議が尽くされるべきである。駒場寮問題の本質は一にここにある。法廷でそれが論じられるためには、学内でその論議がなされていなければ話しにならない。
私の訴えたいことは二つある。一つは、社会的な公正な判断が第三者によって下されうるためには、本訴ではしっかりと論議が尽くされるべきであること。今一つは、そのためには学内でその論議を行うことである。
 本来、この問題は学内で話し合いで解決すべき問題である。学内で論議のうえ和解に行き着くべきである。大学の自治の問題を大学内部で解決できず、裁判にゆだねるのは、裁判の仕方如何によっては自殺行為になる。調停組織を東大構成員が学内外の識者を選んで組織すべきである。本訴をとりさげるための努力、本訴で和解勧告が出たときの受け皿作り、これを実現するためにも大学人が自ら調停機関をつくる努力が今一番求められている。現状からすれば、画にかいた餅といわれるかもしれない。しかし昨年六月二十二日隅谷三喜男氏、小出昭一郎氏、田中秀征氏ら先輩たちを招いて「自治と大学と社会  駒場寮の過去・現在・未来」という公開シンポジウムを開いた実践がある。これに依拠し、第二回、第三回の公開シンポを本訴と平行して開いて行けば、大学関係者の自助努力は計られていく。

H・G・ウェルズとの出会い

 私は昨年一月、宇沢弘文氏の社会的共通資本の理論を知った。今年の一月あのS・F作家で知られたH・G・ウェルズが日本国憲法第九条(戦争放棄)と世界人権宣言の生みの親であることを知った(岩波文庫・ウェルズ著『解放された世界』解説「ウェルズと日本国憲法」参照)。ウェルズが第一次世界大戦を契機に全身全霊を傾けて、戦争を根絶するには何が必要かと考え続けた結果の、到達点である人権の思想。私は社会的共通資本とウェルズの人権の思想をひっさげて、駒場寮問題の真の解決のために今年を頑張ろうと思う。調停組織を駒場の教師集団や学内外の識者を結集して作れないようでは、巨大な戦争廃絶と格闘したH・G・ウェルズに笑われる。中国の一二〇〇もある労働改造所の廃絶の課題のためにアメリカで闘っている中国人ハリー・ウー(『ビター・ウィンズ』『労改』の著者)にも笑われる。
 駒場寮の廃寮と跡地利用計画(CCCL計画)は足許の開発問題である。外で環境保全を訴えていながら、足許で寮の周りの数百本もの樹木を伐る廃寮と跡地計画を許すというのは、言行不一致も甚だしい。二年前に東大教養学部がぶち上げた『知のモラル』を自ら踏みにじること甚だしい。

駒場よ、頑張れ

 新入生諸君、はじめ(出発点)が肝心である。駒場寮廃寮問題の経緯も知らず、その決定に参加したわけでもない君たちに、賢明な判断を今すぐ求めるのは酷かもしれない。しかし東大に入ってくるだけの聡明さをもっている君たち、若さが本物である君たちならば、この冊子で記された経緯を一読するだけで問題の所在はつかめる筈だ。少なくとも真実を見抜き、本質をつかむ努力だけはしてくれたまえ。この足許のもっとも難しく困難で、勇気のいる生きた問題を避けて、授業で学問的精神や方法を体得しようとしても、それはどこか欺瞞を含んだものになり、迫力に欠けるものになると思う。教師にしてもしかり。
 都会の中の森(樹木)は大切である。地域住民を自動車公害から守る都会の森。駒場の杜(もり)を破壊してはならない。樹木を減らしてはならない。駒場寮の建物はまだ五十年はもつという頑丈な建物だ。文化財としての五十年以上という条件もクリアーしている。この頑丈で、磨けば美しい建物を急いで取り壊し、樹木を伐って、一体どのような建物を建てようとしているのか、この経済危機の時代に。国民の血税を使って。
 物を大切にし、樹木を大切にし、人間を大切にする生き方を駒場で学び、実践しよう。
 巨象のような駒場寮の建物と周りの樹木は呼びかけている。果敢にも寮の自治を守り、大学当局の不正に屈することなく生き抜いている数十名の寮生たちがいる。それを支援する健気(けなげ)でプライドの高い寮OBたちの組織がある。東大OBを中心にした八名の弁護士たちがいる。ありがたいことだ。それほどこの闘いが大事だということだ。みんなが励ます。駒場の自治の気風よ、頑張れと。
 私は一棟でもいいから学内寮として駒場寮を残してほしいと思う。三鷹に建設する分を削ってでも。他の一棟は留学生会館などに。私はこの願いのために君たちに呼びかけ、同僚にも引き続き、しかし迫力を込めて訴えたいと思う。少々長文となったこの一文はそのためのものである。
 最後に一言。東大に愛すべき伝統があるとしたら、駒場の自由な気風と若さであろう。学内寮はその一翼を担ってきたが、今や最後の砦の感がする。それを守ろうとする懸命な努力があるのに、それを必死になってつぶしてしまったら、東大で愛すべき何もなくなってしまうと思うのである。
 駒場寮生よ、学業と両立させることは大変だろうが、しっかり寮自治を運営していってほしい。人手の足りないところは在校する友人や新入生に協力を呼びかけてほしい。誇りを持って。