東大は二度誤りを犯してはならない

〜現役教師としての最後の訴え〜

小川 晴久(教養学部教官 東洋思想史専攻)


 駒場寮廃寮反対闘争は今年の10月で丁度十年を迎える。今年の4月8日になると電気・ガスを止められて丁度5年になる。国・大学当局が寮生たちを訴える裁判を起こして4年目に入る。一審寮生側敗訴、寮生側が控訴した高裁も大詰を迎えている。10年目を迎える今年2001年は駒場寮存続にとってとっても大事な年になる。その年の始めに寮の存続を求める現役教師最後の一文を認(シタタ)める。
 昨年3月28日東京地裁は寮生敗訴の判決を下した。昨年10月東京高裁の公判で裁判長は弁護側(寮生代理人)の求めた証人尋問は必要ないという判断を示した。これを見て大学側は高裁での勝訴間近を確信したのであろう。私と同じこの3月に定年退職する大学側代理人の一人永野三郎氏は「駒場をあとに」(教養学部報一月一〇日号)の一文で近く解決しますという楽観的見通しを述べている。高裁の裁判官たちが証人尋問もせず、一審判決の判断を是認するとすれば、永野氏の楽観も根拠があるものとなろう。しかし現在進行中の裁判には重大な詐欺行為が行われていることをまず明らかにしたい。それに私自身が気付いたのは恥ずかしいことに昨年の一審判決をキッカケにしてであった。

1. 廃寮決定の時期を四年もずらす

 昨年の一審判決を傍聴して私が最も驚いたのは判決が東大当局が「東大確認書」(1969年)、「八四合意書」(寮生活に重大なかかわりを持つ問題については、寮生の意見を十分に把握・検討して事前に大学の諸機関に反映させるよう努力する)に違反して、寮生側に事前に知らせずに廃寮を決定したことに対して、何らの価値判断(批評)を行わなかったことであった。なぜなら、それより3年前の1997年3月25日に出た明寮明け渡し断行仮処分判決は大学側の廃寮決定について次のような苦しい弁明をしていたからである。少し引用が長くなるが、大事なところなのでお許しいただきたい。

 「さらに付言するに、債務者らは、この点に関連して、大学が、学生の意見を前もって聴くことなく旧駒場学寮を廃寮とする方針を事実上決定したと主張しており、確かに、記録中の疎明によれば、大学が、平成三年一〇月の臨時教授会において、旧駒場学寮を廃寮とすることがその事実上の前提となっていた三鷹国際学生宿舎構想を承認するに際し、学生の意見を事前には十分に(注、「すこしも」とすべきである─引用者)聴取しなかったことは一応認められるところである。しかしながら、この点は、結局、前記学生の自治の実現の在り方についての考え方の相違に基づくことである。前記のような疎明に照らすならば、社会生活上の観念からすれば、大学としては、事前の意見聴取の機会を学生らに与えることが望ましかったと考えられないではないものの、右の事実からただちに前記廃寮決定の違法を導き出すことは、法理論上は無理というべきであって、債務者らのそのような主張は、採ることができないものというほかはない。──」
 読めば読むほどお粗末な認定で、このような論述では大学の入試にも合格しないであろう代物である。「法理論上無理」といって何ら法理論そのものの中味を明らかにしていないのである。卑怯というほかはない。ただこの裁判官たちは正直であって東大当局の廃寮決定の仕方に問題があったことは認めている。したがって昨年三月の残る中寮、北寮の明け渡しを求める裁判の一審判決に当っても、判決がここをどのように処理するかに最大の関心が持たれたのである。
 ところが判決は驚くことにこの点に一言の言及もしなかったのである。大学側の廃寮決定の時期を1991年10月と1995年10月の二回認定し、後者を「本件廃寮決定」の時期として認定したことによって。読者が判決文に直接当るのは容易ではないだろうから、二回の認定をここに引用しておこう。
第一のそれは一九九一年十月。
 「教養学部は同年(一九九一年─引用者注)一〇月九日の教授会において右の駒場寮及び三鷹学寮を廃寮とし、駒場寮と三鷹学寮の面積を基準とし、これに留学生分を上乗せする形で右両学寮の寄宿舎機能を統合する施設として新たに三鷹国際学生宿舎を建設するとともに、駒場寮の跡地を含む駒場キャンパス東部地区を再開発する方針を承認し、・・右の方針は同月十五日の東京大学評議会においても承認された。右決定に際し、教養学部は、事前には寮生を含む東京大学の学生の意見を聴取することをしなかったが・・・・」(判決文11〜12頁)
もう一つの廃寮決定は一九九五年十月に登場する。
 「教養学部は平成七年四月一日から駒場寮の入寮募集を停止した。・・・・そして学長は平成七年一〇月一七日、教養学部教授会の決定及び東京大学評議会の決議を経て、平成八年三月三一日をもって駒場寮を廃寮とすることを決定(以下「本件廃寮決定」という)としてそれを告示した。」(同15〜16頁)
 判決は後者の一九九五年十月十七日の決定を東大当局の廃寮決定と認定することによって、一九九一年十月の決定時点で事前に寮生たちに意見を聴取することをしなかった事実は認定しながら、それへの評価を一切回避したのである。何というずる賢い、何というペテンであるか。私は判決当日の夜判決文全文を読んで、怒りにふるえた。この詐術は訴えた大学当局ですら思いもよらない裁判官たちの創作(作り変え)と断定し、「最低の判決──第二の東大闘争の火種になる予感──判決自らが廃寮決定の時期を四年ずらす」という一文を草して、一週間後の東大新聞でいち早く訴えた。
 ところが廃寮決定の時期を四年もずらしたのは裁判官たちの創作ではなく、国・大学側であったことが、その後でわかった。
 一九九八年十月一日に裁判所に提出された訴状は次のようになっていたのである。
「4.しかるところ、東京大学学長は、平成七年一〇月一七日、東京大学教養学部教授会の決定及び東京大学評議会の議を経て、旧駒場学寮を平成八年三月三一日をもって廃寮することを決定した。」
 廃寮決定の経緯に関しては国・大学側の訴状は以上がすべてであった。これには愕然とした。訴状の主体(原告指定代理人)を見ると国側のほかに大学側として浅野攝郎、永野三郎、小林寛道の3人の名前もあるではないか。
 私たちが理解している東大当局の駒場寮廃寮決定の時期は1991年10月(とくに10月15日の評議会承認)である。これ以後九年にわたる今日まで東大当局は駒場寮廃寮の方針を変えていない。そして大学側証人として永野三郎氏は一昨年12月の地裁での証人尋問で、大学側が方針を変更する余地があったのは1992年の夏ごろまでで、それ以後は予算(三鷹国際学生宿舎建設予算)の執行上不可能であったとハッキリ言明した。右の訴状は一昨年12月の永野氏の証言と明らかにくいちがっている。私は早速一審判決直後の昨年4月の教養学部教授会で永野氏にこの点を追求した。永野氏は東京大学の決定にはいろいろな過程(段階)があって矛盾していないと平然と答えた。
 私が一審判決が出る前に国・大学側の訴状を見ていなかったのが不覚である。しかし大学側が決定の時期を四年もずらせて訴えるという卑劣なことをするとは想像だにできなかった。現に六年前の明寮明け渡し判決では廃寮決定の時期を1991年10月と認定していたからである。
 右の訴状をふまえて昨年の地裁判決を見ると、流石に裁判官は、訴状通りでは無理と考え、入れこ状になっている「教養学部教授会の決定及び東京大学評議会の議を経て」の部分を1991年10月の第一回目の決定とし、1995年10月17日の学長決定を第二回目の決定と認定した上で、後者を東大当局の駒場寮廃寮決定と認定して、前者の決定の反モラル性を捨象したのである。1991年10月時点での決定の反モラル性(反道義性)への言及を一切回避した点で、藤村啓裁判長らの卑劣さ、ずる賢さは日本の裁判史上特筆されなければならないが、その根拠を提供したのは国・大学側であったことを今問題にしなければならない。
 原告の東京大学(当局)は寮生や学生たち、否、東京大学を構成するすべての者、否、歴史そのものを二度愚弄するものである。一度は1991年10月9日と15日に、東大確認書や八四合意書を踏みにじり、寮生側に秘密裏に廃寮を決定したことにより、今一度は訴状において廃寮決定の時期を4年もずらして1995年10月にしたという詐欺行為によって。永野三郎氏は決定にはいろいろな段階があると平然と答えたが、一昨年の証人尋問のときの証言との矛盾は歴然ではないか。もし1995年10月17日を東京大学の駒場寮廃寮決定とするなら、その前年の1994年11月14日の教養学部長名の翌1995年4月以降の駒場寮入寮募集停止通達は違法となり、説明不能となる(元寮委員長の指摘)。
 いろんな段階で東京大学の決定があるというような無責任な言い方は即刻やめるべきである。東京大学の決定は教授会決定と評議会承認である(大学の自治は教授会の自治である)という、東大確認書違反を1991年10月の段階で行ない、駒場寮廃寮を前提にした三鷹国際学生宿舎建設をどんどん進め、4年後の1995年10月の時点で廃寮を正式に決定したというような、寮生と寮自治を全く無視した、自分勝手な言い分を、東大当局は東京大学の名において裁判で確定させようとしている。寮生たちと何百回話し合おうと、とても巨大な事実をこのように隠蔽し、いろいろな段階という、責任の所在をハッキリさせなやり方を知の詐術(詐欺)と言わずして何というか。既成事実をどんどん積み重ねるキタナイやり方を大学がとるべきではない。東京大学が学生に対する信義を破り、歴史(駒場寮廃寮問題の歴史)を偽造するようでは、社会悪を正す力を東京大学に期待することはできなくなる。東京大学が足元でこのような不義、不正を行っている限り、東京大学の教育と研究は地球の生態系を守り、人権を実現していくという21世紀の巨大な課題に対して無力であろう。

2. 自然の破壊

 駒場寮の自治を踏みにじり、駒場寮を根こそぎ無くしてしまおうとする東京大学の暴力性は、駒場東部地区の自然破壊にもよく表われている。キャンパス・プラザ、新図書館建設(いずれも駒場寮の外堀りを埋めようとするもの)でずいぶん樹木が伐られてしまった。駒場寮が撤去されてしまうと、北寮前の見事な桜の巨木たちも伐られてしまうであろう。寮の東隣りに通称一二郎池があるが(本郷の三四郎池に比して無名である)、この池の地下7メートル下を東京都の地下高速道路が通る計画が二年前まであった。この計画は駒下(コマシタ)住民の力で阻止された。地下高速道路は山手通の下を下りてきて、東大キャンパスを横断せず、東大裏から山手通りに沿って迂回することになり、当面一二郎池は守られた。一二郎池は湧水である。湧水が断ち切られるおそれが今までのところ回避されたのである。教養学部当局は一二郎池地下を通す道路公団側の案に対しボーリング調査を要求しただけで何ら抵抗しなかった。迂回することになったのは住民運動のお陰である。一二郎池の湧水は住民の力によってひとまず守られたのである。しかし、まだ安泰ではない。東大裏に地上40メートルの換気塔を造る工事が進められていて、地上50〜70メートルの深さの土止(ドド)め工事が行われている。一二郎池への水脈が断ち切られないよう不断の監視が必要である。
 一二郎池の湧水とその周りの樹木を守るのも、地球の生態系を守る一環である。何を大げさなと言われようと、足元の自然を守ることが、地球の生態系を守ることの一環なのである。
 駒場寮と寮自治をまもることは、駒場の自然を守ることでもあり、二つはとてもやりがいのあることである。

3. 私費留学生が泣いている

 最後に一言、留学生(とくにアジア系の私費留学生)が三鷹(国際学生宿舎)にあと400の個室が建たないので非常に困っているという話を本郷の同僚から聞いた。その同僚は駒場寮廃寮に反対している私を苦々しく見ていたようだ。私はその同僚に駒場寮廃寮決定の不当な経緯や現状を説明し、ある程度誤解は解いてもらえたが、しかし、この話は大変参考になった。
 私は今から十数年前、駒場寮の利用率が落ちていたとき、空いた部屋を改造して外国人研究者やアジア系留学生に提供すべきだと考えていた。それが10年前の10月9日の臨時教授会で突如、駒場寮廃寮を前提とする三鷹国際学生宿舎案を提示されたのである。1000の個室からなるマンモス団地は、入退寮選考権を寮生に認めず大学がもつことや個室主義で受益者負担を原則とすることなど、問題は多かった。何よりも駒場寮生や寮委員会にはからずに一方的に廃寮を決めたことには一番の問題があった。駒場が完全に廃寮にならないため、600の個室ができて機能しているが、あと400は建っていない。学部自治会や寮委員会は400人分を駒場に移して駒場寮を存続すべきだと主張しているが、私費留学生が部屋がなく困っているという先の話は、このアイデアにピッタリではないか。駒場寮は建物も堅牢で、天井も高く、相部屋方式を生かせば国際親善にピッタリである。私がかつて考えていた案でもある。学内に学生の自治寮を持つのが伝統のある大学の本来の姿であるという。明け方まで灯のともる生活空間が大学の中にあるのは夜間全く無人化になるのと比べてみたら、温かみもあるし、犯罪をふせぐこともできる。機械化、合理化するのではなく、大学の中に生活の空間を保存すべきである。個室で各自その中に閉じこもるよりも相部屋でアジア人同士が共同生活をする。このようなエスニックな空間として生まれ変わるとしたら、駒場に新たな逞しさが戻ってくる。学生は教育の対象だけの存在ではない筈だ。駒場に生活の空間が戻ってくれば、駒下の商店街も往年の活気をとり戻すであろう。一二郎池を守ってくれた恩返しにもなる。寮がこのような形で存続すれば郷里の後輩を訪ねる形で卒業生たちも駒場を訪れやすくなる。
 留学生と力を合わせて駒場寮を再建したらどうであろうか。留学生の下宿先が見つからず、困っている指導教官たちは、留学生が駒場寮に入寮することを妨害せず、駒場寮問題の前向きの解決のために努力すべきである。
 廃寮をゴリ押しする方向ではなく、教授会側は軌道修正をして駒場の再生のために、寮生・学生たちと力を合わせる方向に足を踏み出してほしい。東大は二度誤りを犯してはならないのだ。そのためにも新入寮生が一人でも増えることを期待する。