疎甲五一号証

陳述書

東京大学教養学部教授

大貫隆(印)

  1. 私は、一九九一年、東京大学教養学部の助教授として赴任し、九五年から同学部教授の職にあります。
  2. 1 東京大学教養学部は、平成八年一一月二八日午前一○時一五分ころ、旧駒場学寮に居住する学生たちが違法に使用(盗電)している電気の供給を停止しました。私は、教養学部三鷹国際学生宿舎特別委員会の委員の一人であることから、右通電停止の際、教養学部学部長の要請を受けて、やはり同委員会の委員である刈間文俊教授と共に、不測の事態に備え旧駒場寮近くの体育学研究室に待機していました。
    2 通電がストップした直後に刈間教授が学部長と電話連絡を取ったところ、一旦学部長室に戻るようにとの指示を受けましたので、この指示に従って先ず刈間教授が、次いで五分ほど遅れて私が学部長室のある一○一号館に向かいました。当日は平成九年度後期課程地域文化研究学科の非常勤講師の任用をめぐる重要な会議が正午から予定され、その席で私はある提案と趣旨説明をしなければならないことになっており、事前にその資料の確認をする必要がありましたので、学部長室での用事が済み次第、自分の研究室に戻る心づもりでおりました。
  3. 1 私が学生会館の裏に近づいたとき、その入口付近には……(7名の実名:編注)ら債務者七名を含む、旧駒場学寮に居住または出入りする学生八、九名が集まっていました。彼らは、私が通電停止の責任者あるいは実行者であると思い込んだのでしょう。私を認めるや、全員で取り囲み、この通電停止について激しく詰問すると共に、代わる代わる私の足と下腹部を蹴り上げ、また、私の襟首をつかんで引き倒そうとしたのです。多数の学生に囲まれて、私には逃げたり反撃したりすることは到底できず、ただ地面に引き倒されるのを防ぐのが精一杯でした。
    2 私は、学生たちに暴行を受けながら、自分はただ研究室に戻るところであることを説明しました。また、このとき通りかかった一人の初老の主婦らしい人が、理由は何であれ暴力はいけないと言って、学生たちを繰り返し叱責してくれました。しかし、彼らは聞く耳を持たず、私を引き続き蹴り上げながら、襟首を掴んで引きずり、また後ろから体を強く押して、旧北寮建物の入口まで連れていきました。この時点で、私は意を決して、旧北寮入口前での討論を提案したのですが、学生たちはこれも聞き入れず、暴力的に私を旧北寮建物内に引き込みました(学生課の遠藤学生掛長によれば、彼らは、その時点で旧北寮建物の入口は実力で封鎖され、他の者は一切入れないようにしたとのことである)。私はやむを得ず覚悟を決めて、学生たちに促されるままに同建物二階の通称「ピンクの部屋」(会議及びコンパ用の部屋)まで歩きました。私は、そこで椅子に座り、改めて人事の会議の準備をする必要があることを説明し、即時に退出させるように求めたのですが、学生たちはこのときも、電気を一方的に切った上での勝手な言い分であるとして取り合わず、あくまで私との討論を求め、結局、私はこれに応じることを余儀なくされました。
    3 しかし、討論といっても、学生たちは通電停止の違法性や旧駒場学寮の廃寮決定の不当性を声高に主張して学部側を批判するのみであり、私が逆に問い掛けた、問題解決に向けてどのような方策が考えられるか、それに向けて本件建物の居住者の意思をどう集約・統一していくかというような事柄については、なんら具体的な議論はなされなかったというのが実情です。なお、討論中には、最初私を暴力的に連れ込んだ学生たち以外にも、……(5名の実名:編注)ら債務者五名を含む学生数名が入れ代わり立ち代わり部屋に出入りしていました。
    4 およそ四○分ほどした後、私は、やはり前述の人事に関する会議のことが気にかかり、学生たちに再度そのことを説明して、少なくとも三鷹国際学生宿舎特別委員会の他のメンバーと私とが交代することを認めるよう求めました。ちょうどそのころ、旧北寮建物入口前には同委員会の小林寛道委員長や玉井哲雄委員他が集まって、建物内の私と連絡を取らせるよう要求しており、学生の一人がこのことを私に伝えてきたので、私は携帯電話で小林委員長と連絡を取り、同委員長に私と交代してもらうこととし、学生たちもこれを受け入れました。この結果、午前一一時一○分ころ、私はやっと解放されて建物外に出ることができたのです。

四  私が、平成八年一一月二八日に暴行を受け監禁された顛末は、右のとおり間違いありません。

                             以上

平成九年一月三一日

東京地方裁判所 御中