このテクストは教養学部教授の小川晴久先生が、駒場の学生に宛てて綴った文章で、もともとは印刷されビラとして撒かれていたものです。


駒場の学生諸君へ

一教師 小川晴久

 四月も下旬となって漸く暖かくて美しい季節になった。樹々は芽吹き、駒場 の自然は本当に美しい。

 一昨日、学部当局は駒場寮渡り廊下の撤去作業再開に踏み切った。これをしないとキャンパスプラザ(サークル棟)の予算がつかず、駒場寮本体の撤去予算が現実のものとならないからである。私は早朝から大学に出向き、この撤去作業再開に強く抗議した。抗議の合間にも否応なく美しい自然が目に入ってくる。こんもりした樹々や草花の生気、息吹が伝わってくる。心が安らぎ、落ち着く。特別委(大学側)の同僚に尋ねた。キャンパスプラザはどこに建つのかと。明寮の東端から東側の敷地の切れる向こうまでであろうという。彼の示す方向を見ると、渡り廊下がすっぽり入り、何とその脇にメタセコイアの大木が 二本聳立しているではないか。緑でおおっている草もなくなる。大学側のいうキャンパスプラザの建設とは、このような自然破壊を伴うのだ。うっそうとした自然、森林浴をも根こそぎにし、なくしてしまうのだ。サークルスペースの保障の名のもとに、このような自然が破壊され奪われるのだ。現場に立つことの大切さを改めて知った。今後大学当局がキャンパスプラザ建設を口にしたときには、右の自然空間の破壊を絶えず等置しよう。

 予想だにしないことがその後に起きた。一研と中寮を結ぶ西側の渡り廊下が突如破壊されたのである。破壊といっても渡り廊下のその箇所全部が撤去されたのではない。ユンボ(小型ブルドーザー)によって一撃が加えられ、屋根の一箇所が大きく破壊され、その右側の部分がねじ曲げられ、醜い姿になった。 大学側の陽動作戦であったのか、学生たちを四月二日に一部破壊した裏側(東北部)に引き付けておいて、その対角線の反対側の渡り廊下の破壊に入ったのである。確かにここも渡り廊下である。私は作業員の責任者にきいた。彼は答えた、「渡り廊下ならどこでもいい、出来るところから撤去してくれと言われたのだ」と。ともかく破壊しなければならないんだ、どこでもいい。なりふりかまわない大学側の姿がここにあった。チェーンソウがうなっているのにもめげず学生達は必死に抗議し、破壊はそこで止まった。破壊された渡り廊下の姿は極めて痛々しく、そして醜い姿になった。これがいまの大学当局の蛮行の生きた姿であると思った。北東部についで第二のシンボルができた。これはこのまま保存しなければと思った。

 その翌朝、つまり昨二十五日早朝に家を出、大学側はこの部分の破壊(撤去)作業を続けるだろうと考え、急ぎ現場に入ってみた。七時半頃であったと思う。学生達が青色のビニールシートを、壊されひん曲げられた部分に掛け、それ以上破壊・撤去させないための作業にはいっていた。大事な仕事だと思い、私も手伝い出した。ともかく工事が始まると思われる八時までに終えなければならぬ。みんな懸命にシートをかけ、ロープで痛々しい傷ついた渡り廊下の部分を包帯を巻くようにおおった。八時までになんとか完了した。作業員たちはその現場には姿を見せなかった。私は学生達と一緒に土手に腰を下ろした。そこは一面、紫だいこんの花が咲き誇っていた。腰を下ろしてだいこんの花々の下に座ってみると、寮のまわりの自然が上からかぶさるように私たちを包んだ。ここでも駒場の美しさを発見し、堪能した。

 学生達は京都大学吉田寮の寮生達であった。関西弁が耳に入っていたので作業をしている最中にそのグループだろうと気づいてはいたが、果たしてそうであった。作業が終わって、腰を下ろして休息しながら、彼らは口を開いた。先生、駒場寮は恵まれていますよ。建物はがっしりしているし、部屋の広さも大きいと。きいてみると、吉田寮は木造で、築83年であるという。部屋も小さい。この吉田寮を彼らは、彼らの先輩たちは、廃寮から守ったのだ。五年の厳しい闘争の末に。それゆえに東大駒場寮廃寮に反対するため、遠路はるばる、しかもボランティアで(自弁)で、しかも新学期の授業も犠牲にして支援に駆けつけてくれている。この無私の精神に私は感動した。彼らは一言付け加えた。駒場キャンパスの自然もすばらしい、東大生は恵まれていますよと。私は駒場の学生達、君たちのことを思った。君たちは一体何をしているのかと。そして彼らに言った。そのことを駒場の正門の前で訴えてほしい。君たちの思いと東大生へのメッセージを。

 そして今日、いまは彼らに朝のあいさつを交わしにいきながら、自問してみた。京大吉田寮が近い将来、また廃寮の危機に瀕するとき、私は吉田寮に駆けつけるだろうか、否、東大駒場寮生たちは吉田寮にこのように助っ人として支援にいくであろうか。私は関西の友人の言葉を思い出した。大阪から東京は近いが、東京から大阪は遠いようですねと。

 さて、駒場の学生諸君に訴える。大学の中に24時間寝泊まりできる生活空間があることの意味、しかもそれは学生達の自治で運営されている、そのような空間が存在してきた意味をよく考えてほしい。寮は寮生達のためだけではなく、いろいろな自治活動、サークル活動のため、泊りがけで作業ができる場としても寮外生に広く役立ってきた。そのような貴重な空間が今、消滅させられようとしていることを。

 このような生活空間は、いかに三鷹の国際学生宿舎をデラックスにしようと、駒場にサークル棟のキャンパスプラザを大学が保障しようと、それによって代替されうるものではないのだ。相部屋(共同生活)の意義をも考えよう。たとえ自分はそこに住む意思はもたなくとも、そこに住もうとする、住み続けようとする学友たちのその意思と生活の場は尊重する、それを保障するために力は貸そう、そういう連帯はできないのであろうか。この自治による生活空間を駒場において守るために、京大生に応援してもらうような犠牲を君たちは強いていいのだろうか。京大吉田寮生は本当に駒場キャンパスのことを心配してくれて、なけなしのお金と授業に出る時間と彼らの京都での生活を犠牲にして連帯のため、支援のため、駆けつけてくれている。

 それとも君たちは、そんなことを彼らに頼んだ覚えはない、彼らは勝手にやっているのだと答えるのだろうか。もう一度言おう。駒場(東大教養学部)から長い歴史を誇る自治寮をなくしてしまってもいいのだろうか。大学と学内自治寮の本質的な関係を今こそ考えてみよう。自分がそこに入る入らないは別として。これは同僚の教授会メンバーすべてに向かって発する問いでもある。

 駒場の学生諸君、今駒場にあって学生たちの手で左右できる生活空間は駒場寮しかない。駒場寮を生かすも殺すも、生かすもつぶすも君たち次第である。大学の自治は教授会だけの自治でないこと、学生も参加できることを二十年前の東大闘争は確認書の形で実現した。学生が手作りで参加できる大学作りの残された空間が、駒場寮である。今寮生たちは電気・ガスを止められたまま、教師たちの説得というどう喝にもひるまず、しかし寮生は少しずつ減りつつ、頑張っている。寮の周りの樹々や自然を愛する学生諸君、彼らを支援してほしい。寮に足を運び連帯の挨拶を交わそう。他大学から支援に来ている学生達とも。 自分たちの問題として駒場寮廃寮問題を考えてほしい。頑張っている寮生たちはセクトの学生ではないのだ。駒場を救うかもしれない珠玉(宝)のような彼らとの連帯を。

                       一九九六年四月二十六日